愛する方を迎えるには

2016年11月20日 19:13

聖書箇所: 箴言31:10-31
主はこの国に来られる時、栄光の主としてこの地に来られます
その時初臨の時に主イエスご自身が、ご自身に対して語られているイザヤ書42章の御言葉を指して「この聖句は〜この日に成就した」と語られたように、私達の元に来られる主はこの聖句を私達の内にことごとく成就します。
それはまさに主の栄光の御業。
そしてこの栄光の主は私達の内に御心を成就しようと、王として私達の心の王座に着座し、全地をご自身の御心のままに統べ治められるのです。
「主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。【詩篇96:13】」
まさに全地はこの主の栄光と圧倒的臨在に鳴りどよめきます。
しかしもしもこの時、自らの栄光を求めて生きている者達は、この栄光の主を退けむしろ自らが主から退けられ、滅びへの道へと自らを追いやることとなるでしょう。
なぜなら私達自身が自らの栄光を求めるなら、それを打ち壊して飲み込み圧倒的に超越して現れる主の栄光は、自分にとって邪魔であり危険以外の何ものでもありません。だからこそ自らの栄光を求める者は、生きて働かれる主を退けようと、自ずと神に敵対してしまうからなのです。
この地に救い主として来られた主でさえ、ヘロデ王は自らの栄光を危ぶみ抹殺しようとし、また同様に自らの変わらぬ平穏な生活を求めてこの地のほとんどの人々も主の誕生を喜ばなかったように。
まさにサタンはこのように、人に自らの栄光を求めさせることにより、神の栄光を汚し、神から栄光を奪い、サタン自身のものとしようと、私達の心を利用するのです。そして私達を神に敵対するサタンの支配の元に置こうとします。
私達は主の栄光が現れようとしている今、自らの栄光を求め続けたが故、主の栄光を汚しすぎたことを心から悔い改めるべき時が来ているのです。
まさにこの国は豊かになり、自らの力と知恵によりそれらを得たと自ら神になったかのように自らの栄光を誇ってきましたが、その愚かさは今や自らが招いたのろいにより、滅びに瀕し、私達を囲み繰り返される災いは決してクリスチャンじゃなくても無視できない現状に至っています。
そしてクリスチャン自身もその世の豊かさの中で、自らの栄光を求めることを当然のこととし、主の御心を求めることを二の次として、主の栄光を汚し、この国の滅びをとどめる破れ口に立つことはなかったのです。
しかし主はここに、ご自身の十字架の贖いを現し、二度も三度もご自身を十字架につけるかの如く、ご自身の命をささげることでこの国を救おうとされています。
私達が神から栄光を奪い汚し続ける罪を、十字架にご自身をささげ贖うという形で、神はご自身の栄光を現し、栄光をご自身の元に取り返されます。それこそが十字架に現される神の栄光なのです。
この愛の中にこそ、神の栄光の本質、主は私達を愛すればこそ、ご自身の栄光を現されるのであり、ご自身の元にのみ栄光を置かれるのです。私達に栄光を渡すなら、それを嫉妬と欲望に汚し、争いと血にまみれ、繰り返される歴史が証明する如く、そしてクリスチャンまた教会でさえ堕落し腐敗して行くのです。
私達は今まで主の栄光のみを求め続けて歩んできたでしょうか。
主は今とてもあわれみ深く、主をお迎えするキリストの花嫁として、私達に主への絶えることのない愛をもって、主が来られる日に備え、神の家を、家族を建て上げる日々を過ごし、私達自身が主の喜びとなり栄光となるようやさしく語りかけておられます。
だから今この主を待ち望む待降節の時に、謹んでこの愛の満ちる主の御言葉に、耳を傾けていこうではありませんか。

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