待ち望む信仰

2015年12月06日 19:28

聖書箇所: サムエル下4章、9章

私達は皆主のあわれみによって救われた者です。誰も自分の何かによって救われたのではありません。
ただ計り知れない価値を持つ神の子の命の代価により、救われたのです。
それにより私達は、まるで王の家族のように、神の国の王族に加えられ、天の御国を嗣ぐ者とされ、神の相続の全てを受け継ぐ者とされ、神と日々親しく交わり、日々の生活の必要の全てを王が満たしてくださるという、考えの及ばない程の恵みを受けている者なのです。
さらに、この地においては神の御心を以てこの地を勝ち取るために遣わされた者であり、ただ一人であっても万軍の主が私に先立ち戦われる以上、いかなる状況にも、たとえ世界中が敵に回ろうとも、主の名により圧倒的な勝利を得る者、「大勇士」なのです。
つまり私達は主の福音を携え、主が私達に与えてくださった恵みが如何に大いなるものなのか、生きた神と日々交わり、神を知る者として、主を証しし、この地を福音により勝ち取るという、主の計画をこの身に召しとして負っている者、そのために私達は新しく生まれたのです。
つまりはこの地において私達が生き、その中で与えられているものは、全て主が再びこの地に来られる日に向けて、与えられているものなのです。
しかし、自らの利益のみに目を向け、主の思いに目を向けない者は、この恵みに預かるのではなく、むしろ滅びに向けて歩を進め、あるいは多くの人々を巻き込みながら、神から離れサタンと共に神に反逆する道を歩む者となるのです。
終わりの日に向けて、私達クリスチャンは心が何によって占有され、どこを目的として生きているかによって、結果が変わり、神はその逆らう者達を裁くことすら語っているのです。
主のご計画は最初に主が来られた時と同様に、主の御心を求め成そうと自らをささげる者を求めておられます。
この主のご降誕を待ち望む時、私達は再び来られる主を、だからこそどのようにお迎えするのかということを今深く問われています。
サウルの子孫達イシボセテとメピボセテの姿を見ながら、今回は主を待ち望む者の姿とは如何なるものかということについて、分かち合いたいと思います。


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