偽りの祭壇を砕け

2014年06月01日 18:32

聖書箇所: ヨハネ5:2-9

先週に続いてルツ記から、メッセージをとり次ぎます。
今度は先週とはまた違う視点からルツ記を見てみたいと思います。
それはルツとナオミの発言の違いについて。
ルツは先週もお話した通りある発言を主は喜ばれました。「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。(ルツ1:16)」
しかし、それとは対照的にナオミはその後の展開とは異なる二つの偽りの発言をしているのです。
それは、1:11-13と1:20,21

1:20 「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。」。

1:11 しかしナオミは言った、「あなたがたの夫となる子がまだわたしの胎内にいると思うのですか。
1:12 娘たちよ、帰って行きなさい。わたしは年をとっているので、夫をもつことはできません。たとい、わたしが今夜、夫をもち、また子を産む望みがあるとしても、
1:13 そのためにあなたがたは、子どもの成長するまで待っているつもりなのですか」。

この二つの発言が偽りであることはルツの告白のゆえの主が祝福をされた、その後の展開を見れば一目瞭然なのですが、しかし神を信じる、神に選ばれた民であるナオミの方がこのような発言をするのです。
もしもナオミが神を我が唯一の神とする(申命記6:4)という信仰をゆずらなければ、主のおられるところにこそ祝福があり、その御腕の中に招かれている民として、その後のルツ記のような祝福が、主の元にいるなら、最初から与えられているのだということがわかったことでしょう。
しかし、それを忘れ、現実に目に映ったことを元に偽りを心に浮かべた。神への偽りの信仰つまり神への疑い、不信こそが、ナオミの苦しみの原因であったのです。
多くのクリスチャンやあるいは教会自体でさえ、このような現象は多く見かけられるところです。
ヨハネ5章ベテスダの池のまわりに集まる、癒しを求める病人達の集まり。主イエスはその中の長きに渡り病に苦しむ男性に「なおりたいのか(6節)」とシンプルに問いかけられます。それは救い主そのものである方の愛溢れる問いかけであるのに、男は自分の横にいる救い主がわからず、さらになんと問いかけられたのかすらわからず、チンプンカンプンにも「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです(7節)」。
救い主が今私達と共におられるのです。
救い主が私達に与えられているのです。
この方が居られるなら、全てはいやされ、満たされ、勝利し、罪はゆるされ、死は打ち砕かれるのです。
しかし、多くの兄弟姉妹はそれを脇に置いて、神への疑い不信のゆえに積み上げられた自らの信仰を持って、このベテスダの池の周りのコミュニティーのように集い、時に主への不満や不信を分かち合い、偽りの中に閉じこもっているのです。
しかし、主は全てを満たす神であるのです。
そしてその恵みは私達が救いを受けたその日から、「インマヌエル」の神、今内に住まい、永遠に共に神がおられ、与えられているのです。
私達は主のはじめの愛から離れてしまって偽りの中に留まっていたのです。
さあ、偽りの祭壇を打ち壊しましょう。
そして、イエスの十字架にある主の祭壇を建て上げましょう。
主の絶大なる思いは最初から私達に溢れてとどまることがないのですから。


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