信仰の目の開かれた者

2016年07月17日 19:58

聖書箇所: ヨハネ9:35ー41

信仰の目が開かれているかどうか。この差は信仰者としての歩みに大きな変革をもたらします。
信仰の父と呼ばれるアブラハムが見えないものを見るようにして、神の約束だけを握り歩んで祝福の基となったように、信仰の目はさらにその先に広がる永遠の都をも見通し、この地上を神の約束の成就のために歩かせ、だからこそこの地に於いても有り余る祝福を受け取る、天と地の祝福を得る人生を歩ませるのです。
それは肉(人あるいは地上)の目を持つロトには、選ぶことのできなかった歩み。
主はまずこの肉の目を閉じるため、まず世から離れる所から、その一歩を踏み出すことから始め、そこに主ご自身を現し、信仰の目を開いてくださいます。
全ては主の主権をもって治められる神の国を求め、まさにそこに神の義が現されることを切に求め続けるところから始まる、「神の国とその義とをまず第一に求める【マタイ6:33】」歩みであり、そこに主はこの地上の必要を何一つ欠けることなく添えて与えてくださいます。
しかしあくまでも主の統治の(神の国が地を治め覆う)計画が第一であり、その上に私達の幸いがあるのです。
この計画は、先に天地万物が造られる前から私達が選ばれた所から始まっており、すでに天上のもろもろの霊的祝福を与えられて、この御国の完成の計画のために召されたのであり、私達の世の常識的な日常の歩みとその順番を、またその目的を逆転し覆すものです。
また神の国の統治は、この地上に実際の現象として後に現れるものであり、信仰の目はそれを、先行して天(霊的世界)で起こっていることを見させるものです。
そして、この神の統治こそ、全世界に対し全ての歴史を貫いて存在する最も確固たるものであり、私達はこの統治を、私達の内に、全地を統べ治む真の王の王座を抱くことにより、全地に至らしめるために選ばれた、神の永遠に都であり、それが主の教会なのです。
私達が目を開かなくてどうして神の統治がこの地に来たるでしょうか。
私達はそのために救われ、新しく生まれたのです。
今回は主に私達の信仰の目を開いてくださるよう祈り求め、そしてそのことによって真の主の教会としての歩みをこの地で歩めるよう、共に分かち合って行きたいと思います。


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