人生の中心に居られる神

2015年06月19日 17:16

【伝道者12:1,2,8,13,14】
12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
12:2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
 [中略]
12:8 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
 [中略]
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

私達の人生はその時間に流されるままに生きるのであれば、それはあっと言う間に一年一年が過ぎ、気がつけば、長い時間が無駄に過ぎ去って行きます。
大切な何かがあることに気づいていながら、それに向き合うことなく、むしろ目の前にあることにのみ心を向けて生きること。
目の前にある一つ一つのことは確かに意味があり、日々の生活を生きて行くという意味においては、重要に思えるかも知れません。
いや、生きることに恐れ、将来に苦しみ、日々のことに心奪われ、忙殺されている毎日の中では、もう日々を何事もなく過ごして行くことだけにやっとという状態かも知れません。
しかし気がつけば、無意味に時間だけが経過し、年老いて行く。
そんな現実に「悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、(1節)」と警告をしています。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。(1節)」と。

人の目にどれほど人生が充実しているように思えても、やがてそれは一時のものであり、神にない全てのことは「空の空、いっさいは空である(8節)」と空しく全てがただ過ぎ去って行くに過ぎないということがわかるでしょう。
それはただ一つ私達の人生は神の御手の中にあるということを見過ごしているからなのです。

【伝道者12:13,14】
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

天地万物は主の御手によって造られ、だからこそ万物はこの主がさばかれる内に統べ治められ保たれています。
このさばきは神に近づき、神を愛し、神の御心に従う者には祝福であり恵みです。
しかし、神に背を向け、自らを愛し、自らの思いに従い、神に逆らう者には、のろいであり滅びなのです。
そのことを知る者は神を恐れ、神の御心を歩み(御言葉つまり命令を守り)ます。
そして、それこそが神にあってすべての被造物の本来の生きるべき姿であり、「すべての人の本分である(13節)」のです。
逆に言えばそれを掛け違え、自らの思いと力で、本来生きるべき道つまり神のご計画の中で最善に用意されている道をかけ離れて生きる者は、どれほど自ら満足するように生きたと思えても、その行く先は全てが掛け違えであり、全てが空しいという結論しか存在していないのです。
このことは神を知らない者にとっては言わずもがなですが、クリスチャンにとっても、神を真に恐れることを知らず、自らの道を歩み進めるのなら、その結論は例外なくこのように空しいものとなるのです。
だから、聖書は語ります。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」と。

さあ、自らの歩みをもう一度見つめ、主を恐れて、私達の造り主をしっかりと覚えましょう。
私達を中心に私達の人生が回っているのではなく、私達を造られたこの造り主を中心に私達の人生は回っているのですから。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。