主を喜ぶ力

2014年09月07日 20:17

聖書箇所: ネヘミヤ8:10

人は何とも高慢なことに、日々主が祝福してくださる驚くべきことを、当たり前のことのように考え、感謝をするどころか、不満を並べ、侮ることさえします。
それがどれほど驚くべき御業であったとしても、人の欲望は尽きることなく、やがて溢れる不満の中で神に逆らい続けていても、人にはその心の浅ましさに気づかないことすらあるのです。
何と人の心の卑しいことでしょう。
【民数記21:5-9】にはそのような人の浅ましい本質が語られています。
イスラエルの民が「この粗悪な食物(21:5)」と侮った神の恵み「マナ」は「天の穀物(詩篇78:24)」「天使のパン(詩篇78:25)」と言われるもの。
世界中のどこを探しても、そのような天からの食物、「天からのパン(出エジプト16:4)」を食べた者達などいなかったでしょう。
見渡す限りの荒野、人の力ではとても生きていく方法などない、食べ物も、飲み物も、主に願わなければ、何もない。人ではどうしようもできない。これがイスラエルのその時の状況。
これは自分の力で生きること以外に、何も知らない者達には、絶体絶命の状況。人の目には生き地獄のような状況に見えたことでしょう。
しかし、人の目にそのように見えるものでも、神の目にはその状況は神ご自身が人の全てを満たすことのできる状況であり、神の愛を人に現すのに存分な状況だったのです。
人は、そこでいかに神が恵み深くあわれみに富まれる方なのかを、知ることのできるはずだったのです。
ですから、そこに現れる御業は何一つ人の力で得ることのできないものばかり、いわゆる生きることその毎日が奇跡でしかなかったのです。
その奇跡の象徴が「マナ」だった。
ところが、人はそれを毎日食べる内に、毎日起こっているこのことが、ただ神の一方的な愛による奇跡に過ぎないことを忘れ、「この粗悪な食物(21:5)」と侮ったのです。
そのことは神を大きく悲しませ怒らせた。

しかし、主が望まれるのは主を喜び、主をほめたたえることでした。
「憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です(ネヘミヤ8:10)」
主を賛美するそこに私達の力の源があるからです。
神を喜ぶとき、聖霊は私達の内に満ち溢れ、また聖霊が満ち溢れるとき、この世では味わうことのできない真に神を喜ぶことを知る。
それはたとえこの地で試練に会うとも、また命をささげることとなったとしても、それをはるかに凌駕する喜び(使徒7:54-60,ピリピ2:17,18,1ペテロ1:3-9)。

今回はこの世に生きる私達が主を喜ぶことによって与えられる力の絶大な意味について共に分かち合いたいと思います。


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