主をお入れする器

2014年06月08日 19:00

聖書箇所: 2列王記4:1-7

主はご自身の教会を建てられようとされた時、私達をご自身の代わって遣わすという、ご自身の一つの御旨と共に、私達に命の息(霊)を吹きかけられました。(ヨハネ20:21,22)
同様に、私達この地上にある各々の教会も主の御旨を各々持って、この地に遣わされています。
今滅びに向かっているこの国を、神の元に立ち返らせること。3.11の大震災以降、それは私達にとって、神のこの国への悲願を知るに充分なできごとであり、小さい私達ではありましたが、この国の滅びへの破れ口に立ち、主にとりなしを願ったことは忘れてはならない、私達教会のスタートラインでした。
そして、今この教会が始まって半年を迎えています。
主は私達の祈りを聞き、この小さい私達にご自身の大きな御旨をゆだねて下さいました。
その主の御旨に私達一人一人がどのようにこれまで向き合ってきたか。主はその全てをご覧になられていました。神ご自身の御旨をあずけるにふさわしい器か、ご自身がそこに満ち溢れ栄光を現すにふさわしい器か。
これまで主はそのような視点で私達に毎週御言葉をもって語りかけ、その御言葉に、そして主ご自身にいかに忠実に向き合うかを、従うかを見てこられました。
そして、ご自身の目的にあわせ、その各々をどのような器として用いようか定められました。

【2テモテ2:20,21】
大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。

これは厳粛な事実です。
私達が主を退け、主の御言葉をただ漫然と聞き流し、自らの気分の良い、聞きたいところだけを聞いて、本来の私達の生きる目的を見失って、日常の生活にのみただ追われ生きてきたとするならば、喉元過ぎれば熱さ忘れ、この国の危機に瀕した状況を忘れ、神の御旨を侮った、つまりは神ご自身を侮ったこととなります。何と恐ろしいことをでしょうか。

今陶器師である主は、私達を造り変えることが可能な方として、私達の前に立たれています。(エレミヤ18:1-17)
主の前に頑なに固まってしまった器はもう打ち砕いて捨てるしかありません。(エレミヤ19章)
主の前に、頑なに自らの生活とその満足だけを願い、主を退けて立つか、これまでの歩みを自ら振り返り、悔い改めて主の御心のために生き、主のご計画を、そして主ご自身を、その栄光を、満たす器として生きることを願うため、全く新しくして下さるように自らを主の前に差し出すか、今私達はターニングポイントに立っています。
どうか、愛する兄弟姉妹、神の前にあわれみを請い、主に愛され、主を愛する、クリスチャンとしての歩みを選び取られるますように。私もそのことを主に請い願います。


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