主は今愛を問われる

2016年10月30日 19:57

聖書箇所: 雅歌8:6,7
主は今私達の心の内を探られ、キリストの花嫁達の、冷めゆく主への愛を嘆き悲しまれています。
まるで姦淫に走る女のように、その心が神から離れ、自らの求めるものを得ようと心定まらぬ者達を、その心がどうして神の愛から離れてしまったのかと語られているのです。
まさに私達が救いと共に受け取ったものは、キリストにふさわしい花嫁として飾られた無限の恵みであり、主の一方的な愛によって、与えられたものです。
その絶大な愛を何に取り替えてしまったのか。
神は今私達に主への真実の愛がどこにあるのか問われているのです。
主は私達が、罪を犯し続ける(心神から離れ生き続ける)故に、再び滅びに向かうことを望んでいません。
むしろ、そこから立ち返るために徹底的な聖別を求めておられるのです。
罪を聖別し根絶するのは、主イエスの十字架の死しかありません。
まさに主の十字架の前に悔い改める日々は、私達自らを死につけ、罪から根底的に解放される道に他なりません。
死こそ私達をその罪ごと十字架に釘付けにするもの。そのことにより古い私達が釘付けにされるのです。
しかし私達はこの死に留められ続けるのではなく、この死を経るからこそ主と共によみがえります。
天から下された主の新しい命により、私達は新しく造られるのです。
まさに神の国はこの新創造の国であり、肉と血、朽ちるものは、朽ちないものを継ぐことができず、神の国に入ることはできないのです。
つまりは私達は、新しく造られなければこの神の国に入ることができないというわけです。
そして新しく造られたからこそ、主が来られる日には、私達はまさしく花嫁の姿として、主の栄光に輝く新しい永遠の都の姿をとって、主と永遠に共に住まうことになるのです。
この時、主の愛と私達の愛は永遠に一つとなって、結婚の奥義は完成します。
その日に至るまで主は、私達の中に愛が育まれることを望み、最初に十字架によって与えられた、主からの一方的に注がれた始めの愛にとどまり続け、私達の内に主の愛に答える花嫁にふさわしい愛が満ちることを待ち望んでおられるのです。
だからこそ、主は私達の内に主への真実の愛があるのかと、私達に改めて今問われるのです。
主の永遠の愛に答え続ける、主への永遠の愛を、私達の内に大切に育み満たすこと、そのために私達が十字架の愛の内に日々とどまる生き方について、今回はクリスチャンの心の内側を知り尽くされる神の、私達に注がれる愛のまなざしに心開いて、主の御言葉に耳を傾けていきたいと思います。

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