主の麗しさに心奪われる

2016年08月21日 19:47

聖書箇所: 雅歌5:2-16

主がこの地に来られる時、それが私達にわかるかどうか?
それは初臨という形で最初に主がこの地に来られた時、イスラエルに与えられた大きな命題でした。
主に関心もなく、実は愛もない。それが当たり前の話。だから主が来られることがわからない。
その同じ命題は、いつ主が再び来られるかわからないけれども、必ず来ると約束されている、今の私達に向けられています。
主が私達に注ぎ続けてくださっている、十字架に全てを与えられた愛に、日常的に無関心になっていないでしょうか。
そこに私達の神への思いはなく、あるのは自己中心の生活の中に生まれる、「貪欲は偶像礼拝である」と言われる偶像。
形だけの信仰、形だけの神殿の中で行われる偶像崇拝の数々、それはかつてのイスラエルの愚かな姿というだけではなく、私達の心の中こそそのようではないかと、今見つめ直せと主は迫られます。
十字架の愛にどう答えるか。
その愛によって主の呼びかけに答え、いつでも主をお迎えできる備えとして、この地上の生活を送る、まさに私達は花婿に愛をもって答えるキリストの花嫁であるはずなのです。
多くの人々は自らの満足、欲望の内に、神を退け、神の麗しさより、善悪の知恵の木の実の麗しさに心奪われます。
世から得ようとする全てのものはこの麗しさに満ちています。
命の木の麗しさに、キリストご自身に、心奪われる者はどれほどいるのでしょう。
この命の木こそ、永遠の神の都に流れる命の川に植わっており、この都こそ私達自身、キリストの花嫁と言われる新しいエルサレムであり、ここに主ご自身は満ち溢れて、私達を満たさんとする。さらに主は豊かに私達の全ての必要を満たして余りあり、満ち溢れて私達に完全に充満されようと渇き願われる。
そこには主の賛美があり、賛美が溢れるからこそ、主が満ち溢れる。
それが本来の私達の姿。
私達はこの方の本当の麗しさを知っているでしょうか。その麗しさを心から賛美することができるでしょうか。
私達の愛は主を満たすほどに賛美に溢れているのでしょうか。

今回は主の麗しさに心奪われ溢れる愛をたたえる、キリストの花嫁の姿について見つめながら、私達の日々の生活を振り返っていきたいと思います。


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