主の眼差しを忘れない

2015年05月27日 18:41

【詩編94:3】
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまでその人に平安を与えられます。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。

人は悪い事をするとき、人前で見られるように正々堂々とする人はいません。
悪い事は人の目を盗んでします。
それは本人が悪い事をしているという罪の意識を持って行っているからに他なりません。
しかし、ここで一つ重要な事実が欠けいます。人の目を盗めても神の目を盗むことはできないということです。
神は私達が何をしているのか一刻一秒その目が離れることはありません。
ですから、もちろん善い事を行うにしても、何にしても神の目は私達から離れることはないのです。
このことを認識することはとても大きいことです。
なぜなら、人はこの神の目から隠れるということから、罪人として神から離れて生きようとする歩みが始まるからです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

ここに罪の本質が現れています。
自らを見て罪人であることを知るのであれば、いつくしみ豊かであわれみ深い主に、あわれみを求め、その罪からの救いを求めるため主に近づけば良かったのです。
しかし、その罪を隠し、さらに神に隠しおおせないことを知って、神ご自身から身を隠したのです。
神と共にエデンの園で何不自由なく暮らしていた人が、罪が人に入った瞬間から、神から隠れよう、離れようとする者となったのです。
つまりこれは、自分の罪を神の前に自分で何とかしようとしたからに他なりません。
そして、完全なる聖であられる方の前に、人の汚れた罪は神の光の前に照らし出される。神は罪人を裁かれざるを得ない。だから、人は神の前から隠れ離れようとしたのです。
この罪そのものを、本来なら神の前に出て、神のあわれみにあって赦しを請えばよかったのです。
しかし、残念ながらそれ以来人は神の目を盗もうと試みます。そうして神から背を向け離れたところで、人は罪を重ねます。
全てが神の前に明らかであるという事実を知らない愚かさを、罪を犯そうとする人は知りません。
この愚かさが罪を重ね続ける人には致命傷なのです。
なぜなら、この罪を重ねる者を主は忍耐されているに過ぎませんが、主はその罪をそのまま捨て置かれることはないからです。

【ヨブ34:19-30】
34:19 神は君たる者をもかたより見られることなく、富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである。
34:20 彼らはまたたく間に死に、民は夜の間に振われて、消えうせ、力ある者も人手によらずに除かれる。
34:21 神の目が人の道の上にあって、そのすべての歩みを見られるからだ。
34:22 悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない。
34:23 人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。
34:24 彼は力ある者をも調べることなく打ち滅ぼし、他の人々を立てて、これに替えられる。
34:25 このように、神は彼らのわざを知り、夜の間に彼らをくつがえされるので、彼らはやがて滅びる。
34:26 彼は人々の見る所で、彼らをその悪のために撃たれる。
34:27 これは彼らがそむいて彼に従わず、その道を全く顧みないからだ。
34:28 こうして彼らは貧しき者の叫びを彼のもとにいたらせ、悩める者の叫びを彼に聞かせる。
34:29 彼が黙っておられるとき、だれが非難することができようか。彼が顔を隠されるとき、だれが彼を見ることができようか。一国の上にも、一人の上にも同様だ。
34:30 これは神を信じない者が世を治めることがなく、民をわなにかける事のないようにするためである。

「主は見ない」「神は悟らない」(7節)と罪を重ね続ける者は神の忍耐を侮り、神を試み続け、燃える炭火を自らの頭に積み、神の怒りを自らの身に招いていることを知らないのです。
確かに生まれながらに神を知らない者なら、このような愚かなことを知らずに重ねていくことでしょう。
しかし、主を知り、主のものとされたクリスチャンが罪を重ね続けるのであれば、それは主の裁きを免れることはないのです。
勘違いをしてはなりません。
主に救われ一度その罪を赦された者は、罪を犯し続けることができないようになるのです。
なぜなら、その内から神の聖霊が働き、罪責感に罪を犯していることを知り、必ず罪を悔い改めて、続けて罪を犯し続ける歩みに進まないからです。
しかし、それを全て退け罪を犯し続ける者は神にあるものではなくなって行くことを、恐ろしい現実として知るべきなのです。
神はクリスチャンであるから何をしても赦してくれると、何をしても良いのだと、「主は見ない」「神は悟らない」(7節)と生きることは、自ら裁かれる者の道、滅びの道、サタンの道へと歩みを進めているのです。

【1ヨハネ3:1-10】
3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
3:2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
3:3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。

主は義なる方です。
この神の義により、天地万物は保たれ、統べ治められているのです。
この義は全ての者に対して公正です。
同時に主は愛なる方です。
ですから、この義の前に私達の罪が照らし出されても、主にあわれみを請い、その罪を悔い改めるのであれば、神の愛と義の交点である十字架の愛と神の義により、私達は罪をゆるされ、また新たにされて、罪から離れ、神のものとしての歩みを新たにすることができるのです。

私達は愚かな者とならないためにこの神の義にある厳粛な事実を忘れてはなりません。

【箴言15:3】
15:3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

そして、この主の目に、主を喜ばせる者として生きることを私達は望もうではありませんか。
主の目から隠れて行うことに何の得も存在しません。ただそこには滅びへの道が口を広げて待っているに過ぎないのですから。
主はいつでも私達が滅びに向かうことを望んでいません。
今なお神の前に罪を犯し続けている兄弟姉妹がいるのであれば、主の前に悔い改めて罪の赦しを受けようではありませんか。

【エゼキエル33:10】
33:10 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

【イザヤ55:6,7】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

【1ヨハネ1:5-10】
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。