主の熱心が覆うとき

2014年10月05日 19:18

聖書箇所: イザヤ59:15-21

主はそのご自身の熱心により、私達を覆うと語りかけられています。これは他でもない、主の熱心によるのです。
私達の何ものにもよりません。
主が私達のこの国(この地)を愛し、惜しみ、だからご自身の熱心によって、覆われるというのです。
この国が罪に満ち、滅びに向かう。自分たちの力ではどうにもできない、この時だからこそ、神ご自身の熱心しか私達を救うことができない。だからこそ、主は私達にそのように語りかけておられるのです。
私達のどのような業も自らの罪を覆うことはできませんでした。
いや、人は創造の始めのとき、最初に人が罪に陥り、善悪の知恵の木の実を食べ、自分たちの罪に満ちた姿を目にしたときから、自分の手で、その罪を覆おうと葉つづり合わせて、腰を覆いました。
しかし、人の罪はそれで覆うことはできないからこそ、主ご自身が動物の命の犠牲によって作られた、皮の衣で人を覆ったのです。
今同様に主はご自身の熱心により、この国の罪を覆うために、この地にご自身を現されると語られているのです。
私達クリスチャンはこのときどのように主をお迎えするべきでしょうか。
自らの力を頼りとするエジプト(世)を頼りとして生きる者と、神を頼りとして神を愛し、神を喜んで迎える者、主はその二者の間にはっきりと異なる現れ方をされるでしょう。
主は裁きをもってこの地に来られますが、同時に主はご自身を求める者、受け入れる者には救いをもってこの地に臨まれる。
私達はどのような者として主をお迎えするでしょうか。

今この国の罪が熟する終末の様相を呈しているこの国において、どのように主が臨まれるか、また私達がどのように主をお迎えするかについて、共に今日も分かち合っていきたいと思います。


メッセージダウンロード