主の渇きを我が渇きとする

2014年07月27日 19:30

聖書箇所: サムエル下23:13-17

先週はマラキ書から、私達からの愛に渇かれる主の渇きについて、主から語られました。
今週も引き続き、主の渇きについて語られています。
主は今、【サムエル下23:13-17】にあるダビデのように渇いておられます。
それはこの国が滅びに向かって刻一刻と進んでいくこの現状を憂いておられ、この国の破れ口に立ちとりなす者がいないと渇いておられる。また滅びから主へ立ち返り救いを得るよう語られるべき、主の御言葉の飢饉であると、その渇きをその胸の内を私達に訴えられておられるのです。
それであるのに、私達が自らの生活に追われ、「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。(ハガイ1:4)」と、私達の視線が主の思いから、未だ離れてことを主は悲しまれています。
ここで語られる主の家は、この国のまだ救われていない多くの人々もつなぎ合わされて建て上げられるべき主の家を指し、そうした意味においては私達は主がご指摘されるように、まだ主の家を建てず荒れ果てたまま放置して、自分の家のことに没頭していると言われても仕方ありません。
いやだからこそ、「あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。(ハガイ1:6)」と、むしろ自分の生活が満たされることがないと言われているのです。
私達に飢饉が送られるのは、主ご自身が渇いておられることに気づくためであると。
今、私達には「自分のなすべきことをよく考える(ハガイ1:5)」べき時が迫ってきているのです。今この国が多くの選択をし、大きく変わろうとしている時だからこそ、この国が滅び行くことへのご自身の強い渇きを、主は訴えておられるのです。
主の渇きを自らの渇きとし、命をかけて潤そうとする者は誰でしょうか?
いいえ、私達はこれまでにすでに同様に主の渇きを語られており、それを潤す者として自らをささげることを主に願い出た者のはずです。
そして、その渇きを潤す者を最も尊いものとして主は喜ばれることを、主はそれを最も尊いささげものとして受けられることを知っているはずなのです。
まだ私達のとりなしは、そして語るべき主の御言葉は、この国の渇きを潤し、主の渇けるみこころを潤すまでに届いていません。
だからもう一度、自らのこれまでを省みて、何をすべきときなのか、主のみこころを仰ぎたいと思います。


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