主の民の聖別

2014年05月04日 18:42

聖書箇所: コロサイ3:1-3

私達は毎週この礼拝の中で主との豊かな交わりを与えられています。ここには主がどれほど私達に大いなるものを与えて下さっているのかを知るに充分な、素晴らしい豊かな交わりがあるのです。それはこの地上では味わうことのない交わり、天における交わりそして永遠の交わりが存在しています。
この永遠の交わりを兄弟姉妹と永遠に共に分かち合う、これこそが主の教会です。
天地万物の創造者にして、その全てを所有される主権者であられる方、全てに満ちみちておられるキリストを共に分かち合う。私達は何という特権にあずかっているのでしょうか。
まさにこのキリストを知ることのゆえに、地上にある全てのもの、つまり私達のこの地上で持っている全てのものはふん土のように思えるでしょう。
そしてこの恵みに恵みを加えられ、満ち溢れる教会の豊かさは、まさに天にあるものです。
しかし逆に、私達が地上にあるものに心奪われ、この地上の問題、状況をそのままこの主との交わりに持ち込むのであれば、その豊かさは途端に失われてしまったかのように思われるでしょう。
まるで見えていたものが見えなくなってしまったかの如くに。
主のこの溢れる豊かさを何に取り替えてしまったのか。塵あくたに過ぎない地上のものに、神の絶大なる富を取り替えてしまうことを、どれほど神は嘆かれることでしょうか。
むしろ、この天にある豊かさが地上にあふれ出るときこそ、無尽蔵のキリストの豊かさが満ち溢れ、私達の地上の生活全てがこの豊かさに飲み込まれるのです。
主イエスのよみがえりが、その勝利が、死を飲み込んでしまったように。
そのために私達は今ひとたびこの豊かさを思いつつ、私達自身を主の十字架にあって聖別することに心を傾けたいと思うのです。
なぜなら、私達の全ての地上のことは十字架の死と共に、既に葬り去られたことなのですから。
この地上の上にさらに積み上げようとしても既に死んだものの上に積み上げられるようなものは何も存在しないのですから。


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