主の御心のままに

2015年12月13日 19:31

聖書箇所: ルカ1:38

主は詩篇75篇を以て語られ、これからこの地にまたこの国に臨まんとすることについて語られています。
それは主がこの地に臨まれる時、全て主に逆らいこの地を汚し悪を行い続けた者達は裁かれますが、同時に主は「柱を堅くする(3節)」と語られ、ここにご自身の教会を堅く建て上げることを表しているのです。
「真理の柱また土台で(1テモテ3:15)」あると語られ、また「神の聖所における柱にしよう」と語られる、教会とはいかなるものなのでしょうか。
それはまさにキリストの体であり、各々がその器官として連らなるように、何一つ不必要な器官はなく、麗しく、互いに注がれている神の愛によりつなぎ合わされているものであり、誰一人独立して存在するものはなく、また互いに信仰により愛により支え合って建て上げられて行くものです。
主はそのような思いを与えて、ご自身の御体を全地に満たそうと、各時代各地域に個々の教会を建て上げ、つまりは私達教会は各々主の御心を持って、主の御国をこの地に顕し、この地を勝ち取らんがために、各々任された地に遣わされているのです。
しかし主の御心ではなく自らの生活にばかり心を煩わせ、あるいは自らの満足を求め生きようとする者は、終わりの時代においては偽教師の出現と共に神から離れ逆らい自ら滅びに向かう者となって行きます。
これは決して特別なことではなく、ごく当たり前に見える信仰生活の中に、まことしやかに存在している偽りであり、また同時にそこに容易に向かっていく人も多いのですが、主はイスラエルに対してもそうであったように、私達の生き方を見ておられ、それをもって主に従うかどうかを試しておられるのです。
ですから主は今はっきりと私達が新たに生まれたのは教会を建て上げ、主の御体を建て上げるためであると語られているのです。
それはソロモンとその時代に生きたイスラエルの民がそうであったように、私達にも同様に今強く語られています。
改めて主はご自身の教会をこの国に建てると。
それは人の思いで建てられた、人を満足させるための教会ではありません。
主のために建てられた主のための教会として、改めてこの国に教会を建てると。
ある意味これまでの私達教会の歩みに厳しく語られるこの言葉を、むしろ真剣にそして新たな思いで受け止め、主の御心がこの地になるようにと受け取るのは、大きな約束、全地への救いの約束を一身に担った受胎告知を受けたマリアの姿と重なるものです。
今主のご降誕を待ち望むアドベントの時に、主のご計画を受け取り、待ち望む者として、主の語られる御言葉に耳を傾け、「お言葉どおりこの身に成りますように(ルカ1:38)」と私達自身の唇で告白していこうではありませんか。


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