主の名を呼ぶために

2015年08月02日 21:02

聖書箇所:列王記下18:19ー19:7

人は何も問題や脅威がない時には、特別に神を必要と感じないのかも知れません。
しかし一度自らの力ではどうにもならないような問題に遭遇すると初めて主の名を呼び救いを求め始める。
イスラエルの歴史においても、そのようなことは繰り返され、主の恵みの豊かなるがゆえに主から心離れ、主から離れて罪が満ちやがてのろいが地に満ち滅びへと向かう中で主の名を呼び始める。
我が国においても同様に主を退け続け主を受け入れないがゆえに積み重なる罪が満ちてまさに滅びようとその問題が如何ともしがたくなっています。
まさにヒゼキヤ時代のイスラエルの如く、アッスリヤとエジプトの二つの大国に挟まれあるいはそこに頼りあるいは脅威となっていたように、この国も外向的には脅威に囲まれ、それがまさに大きな問題となり始めこれまで長く続いた平和が失われようとしています。
ここでヒゼキヤは迫り来るアッスリヤの圧倒的な威圧に屈することなく主に頼り、やがて絶大な勝利を目の当たりにしました。
そこに今主が私達に求められている御心の真実が隠されています。
私達クリスチャンは祝福とのろいの狭間にあって、国の破れ口に立ってとりなす者としての位置どりを持っています。
滅び行かんとする国の破れ口に立ち、主の名を呼ぶ者としての役割りを私達教会は本当に理解しているでしょうか。
今が主の名を呼ぶ時。
主の御心の深みに真剣に耳を傾けていきたいと思います。


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