キリストの苦しみを負うとりなし

2016年10月23日 19:42

聖書箇所: 出エジプト32:11ー14
今主は私達の心をご覧になり、その有り様の奥深くまで、探られます。
それはまさに滅びに瀕するこの国に置かれたクリスチャンとして、この国を主の元に勝ち得て救いに導く者達として、今如何に生きているかということを問われているのです。
自分達だけが幸せである道を求めて歩む信仰のあり方を、主はそれが本当に主の御心を知り、主に対する真の信仰をもって歩んでいる姿だと言えるのかということについて。
アッスリヤ、バビロンに捕囚されるまでのイスラエルがそうであったように、それは、国に、地に、罪が、悪が満ち、滅びへと真っ直ぐに向かう、そのような時こそ、それまでにその地に立てられた主の宮(クリスチャン)がどのようであったのかということが、その悲惨な現状に密接な関わりを持っているからです。
主はそれがたとえ人の目に何ら変わりなく信仰に見えるものであっても、主ご自身が私達に聖書をもって語られる真実の信仰と異なるものを、聖別されようされます。
イスラエルがかつて造り出した金の子牛を祀った祭壇と同様に、主はそのようなものを忌み嫌われます。
この金の子牛こそ、エジプト(罪の世)から救い出された人々の心を、再び神から離しエジプトに戻そうとするもの。自らの欲望をかなえる、自らの思う通りに生きるために造り出された都合の良い神。
人はこの都合の良い神という名の金の子牛(偶像)を祀り上げて、真の神と対立するのです。
それも、神の祝福の溢れる約束の地ではなく、自らの力で生きなければならないのろいの地、エジプトに逆戻りしようとするために。そして彼らはそここそが乳と蜜が流れる地だというのです。
何とも無駄で、悲しい結末でしょうか。
神にせっかく救い出された者達が滅びへの道を、求め戻ろうとするとは。
神のご計画を求めず、自らのことしか考えることのない者達の行く末はこのような神への反抗と滅び、そして主に裁かれる道でしかないのです。
終わりの時代を語る聖書の箇所には、このような道に巧妙に導く指導者とそれだけを求める民達の姿が明確に示されています。
そして同時にその地への裁きは神の家から始められるのだと言うことも。
しかし、主は彼らが裁かれることを望まれる主ではありません。
だからこそ、主はご自身に不忠実な民イスラエルのために、あるいは始めから神に逆らい続ける強情な民であることを知りながら、導きとりなし続けるモーセという神の家に最も忠実な人物を、そこに立てたのです。
彼こそは神に逆らい常に滅び続けようとする民の破れ口に立ち、命がけでとりなす者でした。
まさに自らの永遠の命でさえ投げ出してとりなす様は、主イエスが私達の罪のため、ご自身を永遠の裁きへとその身を十字架に投げ出す姿に重なるものであり、これこそ永遠のとりなし手である主イエスの思いを、その身をもって、その苦しみの足りないところを負う姿でありました。
新約の時代においては、まさにパウロの書簡の中の随所にそのような、主イエスの十字架を共に負う思いが語られています。
このように主は今この国を救いに導くために、神の家にまず目を向けられ、真にとりなす者を求めておられます。
特に、この国を救いに導くべく選ばれた民達が、その心が神から離れ逆らいすらしている、その破れ口に立ち、再び主の宮として、多くのこの後救われるべき魂を入れるべき器として整えられるよう、この神の家ためにとりなす者を今求めておられるのです。
今主が私達に厳しくも、その愛の内に、ご自身と思いを共にする者を求められる思いについて語られる真実な言葉に、心開き耳を傾けていこうではありませんか。

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