キリストに愛される者として

2015年11月08日 19:27

聖書箇所: エペソ5:22-32

私達が救われているということは余りにも大きな恵みです。主がご自身の命を与えるほどに愛し尽くした、その愛の大きさは計り知れません。
私達はそれほどまでに愛されているのに、その恵みの、その愛の大きさをあまりにも当たり前のものとして、その内に感謝と喜びと愛をもって生きることをせず、むしろ主から顔を背けて、もっと必要なものや、重要なことがあるかのように生きています。
しかし、キリストの花嫁がキリストの再び来られる日を、愛をもって待ち望むという、神のご計画の中心、クリスチャンの本来の目的をなくして、どうして信仰者として歩んで行くことが出来るでしょうか。
それは神を知らない者達あるいは退けた者達と何ら変わりない、花婿なるキリストを、花嫁たる教会がその愛と共に退け、愛する者から受けるにはあまりにも冷たい悲しい仕打ちをし続けるという残酷な姿と言えるでしょう。
しかし、幾度も姦淫を繰り返す妻を、代価を払って買い戻そうとする預言者ホセアのように、主はそれでもなお私達にご自身の元に帰るよう、主の十字架の代価にあって、愛の内に私達を呼び求め、主に愛される者としての歩みに戻るよう強く願っておられるのです。
もう一度主の愛がどれほどに大きいものなのか十字架の御姿の内に思い出し、その恵みが私達の人生の全てを満たし、なお余りあって主の他に何も必要なものなど無いほどに絶大なものであることを御言葉の内に再認識する必要があるでしょう。
今回は主に愛される者としての私達の本当の姿と、主の注がれる深い愛、そして如何に私達が主を愛して歩むべきかということについて、幾度も語られていることではありますが、なお心離れる自らの姿を省みて、もう一度心から耳を傾けていきたいと思います。


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