肉の人と霊の人

2014年10月22日 12:17

【創世記13:1-18】
13:1 アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。
13:2 アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。
13:4 すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。
13:5 アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。
13:6 その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。
13:7 アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。
13:8 アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。
13:9 全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。
13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

私達信仰者の歩みには二つの道が用意されています。
それは肉によって歩む道と、霊によって歩む道。別の言い方をするのであれば信仰によって歩む道と、自分の判断で自分の力と知恵によって歩む道。
これは信仰生活が始まる最初の段階から、どちらを選択して歩むのかを少しずつでも主から問われ、日を追うごとに迫られることとなる重要な課題です。
救われて間もなくは、その喜びで信仰者としての歩みを求めようとするでしょう。
しかし、少しずつ時間を経るにつれ、世と信仰の折り合いをつけ始める。
世は自分の目に見え、耳に聞こえるものを元に、自分の経験則や世の常識を頼りに生きることを正しい、通常の生き方であると教えます。
そして、それを超越した、神による導きなどということは非常識、クレイジーな生き方であると、それをどうにかして止めるようと勧めるのです。
そして、頭の中でその葛藤が大きくなる。
聖書は、神の大いなる栄光が現された数々の御業が、そこに登場する人々を通じ、その信仰によって歩む中に現されることを力強く語ります。
あるいは私達の内側からは聖霊を通じ、その道が人の目には常識的で、正しい、あるいは安全な歩みに見えたとしても、そこには平安がなく、それとは別に確かにそこへ進むのであれば大きな平安を感じられる、主が導こうとしている道が存在していることを、私達に語りかけます。
世の常識と異なる主の道。それは信仰によってでなければ見る(ヘブル11:1)ことがかなわず、信仰によってでしか選択することのできない道です。
これは折り合いがゆるされない選択です。なぜなら、人生の大きな選択、その先には私達の永遠の歩みでさえ、主の視野には入っているからです。
だからそのような重要なものとして主は選択を迫られる。
そのときには、これまで信仰生活に折り合いをつけてきたことは大きなマイナスとなります。
なぜなら、心の奥底から語る自分の常識が、信仰の目を覆い隠し、信仰によって選択を取ることより、リスクを考えて、自分の目に見えるものを選択することしかできないのです。
ここで重要となるのが毎日の信仰生活なのです。
ここに語られるアブラハムの歩みは移動する先々で祭壇を建て(創世記12:7,8,13:4,18)、神を中心にした生活をです。
しかし、ロトには祭壇を自ら建てたということは聖書には記されていないのです。
だからこそ、ロトの目には信仰の目で見えるものより、人の目に見える豊かさを選んで(創世記13:10)しまった。それが霊的には罪に溢れた主に忌み嫌われている土地であることを、つまりはのろいは満ちるけれど、主の心はそこにない、主の祝福のない土地を、良い土地と思って受け取ってしまったのです。
しかし、アブラハムはその選択の時点で、すでに信仰を働かせています。
積極的な選択をロトに譲りました(創世記13:9)が、アブラハムは受動的選択の中にすでに主への万感の信頼を持っていた。
主はいかなる時にも主に信頼し、主に向き合い、主に来る者に良くして下さる(ヘブル11:6)ということを知っていたからこそ、その選択をロトに譲ることができたのです。
すでに選択をする前に、選択を譲るという選択に於いて、主への信仰により、アブラハムは祝福を得ていたのです。主はその信仰を喜ばれた。
だから、その祝福は信仰の目をあげて見ることでしか見ることのできないもの(創世記13:14-17)。広大な約束の地と多くの子孫達の繁栄する姿でした。
そしてそれを見て、アブラハムはさらに祭壇を建て(創世記13:18)、主を拝しほめたたえたのです。
アブラハムはその最初に神の約束のみを信じて、ウルの地を出て、神の約束だけを頼りに歩む、信仰によって歩み続けた人でした。
だから、その生活を神の祭壇を建てることから始め、神への信仰を生活の中心据えたのです。
いや、そのように信仰によって人生を選択し歩む者は、主の恵みの素晴らしさと、その途上に於いては人の目には何もなく見えず、人の力は何も通用しない、主の力強い御手だけがそこに連れて行くことのできる、成し遂げることのできることを知り、主だけを頼りに主に全てをゆだねて、信仰生活を歩むのです。
これが信仰者の歩みです。
聖書はこのように信仰によって歩む、霊に導かれて歩む霊の人と、自力で世と妥協する内に世に染まって生きる肉によって歩む肉の人とを、このようにはっきりと受ける結論の違うものとして、語っているのです。

【ガラテヤ5:16-25】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

あなたは霊の人として主の祝福を受ける歩みを選択しますか?それとも肉の人として、世ののろいを受ける歩みを選択しますか?

永遠の約束の地、神の国をつぐ者としての信仰者としての歩みを、あなたが選ぶことができますように祈ります。

※メッセージで引用している聖書箇所です。ご参照下さい。

【ヘブル11:1-3,6】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
 [中略]
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【創世記12:6-8】
12:6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。
12:7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。