聖なる約束の地

2015年06月12日 11:56

【申命記4:21-31】
4:21 ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。
4:22 わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。
4:23 あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。
4:24 あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。
4:25 あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、
4:26 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。
4:27 主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。
4:28 その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。
4:29 しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。
4:30 後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、
4:31 あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

このヨルダン川の向こう側こそ神の約束の地です。
私達においては神の御国を継ぐ約束をいただいていますから、この約束の地に入るということは神の御国に入るということを意味すると言うことができるでしょう。

律法は私達を義とすることはできません。
律法は私達を義とし、約束の地、神の御国に導き入れることはできず、主イエスの十字架による神の義のみが主イエスを信じる私達を義とし、神の御国へと私達を入らせるのです。

【ローマ3:20-26】
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

つまりこの律法に仕えたモーセは、ですから約束の地にイスラエルを導くことができませんでした。
その後のヨシュア(ヘブル語)つまりイエス(ギリシャ語)でなければ、約束の地に入らせることはできないのです。
※ヘブル語読みのヨシュアはギリシャ語読みに訳するとイエスになります。

しかし、今回はモーセがヨルダン川の向こうの約束の地に入ることのできなかったもう一つの理由に目を向けてみましょう。

【民数記20:7-12】
20:7 主はモーセに言われた、
20:8 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
20:9 モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
20:10 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
20:11 モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
20:12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
20:13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

モーセはメリバの水の出来事において、主から命じられた言葉に従うことなく、かつて杖で岩を割り水をわき出させたという経験則(出エジプト17:5-7)から、同じ事を行いました。
それは主の言葉を信じず、自らの経験を信じたためであり、そのゆえに「わたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかった(12節)」と言われ、約束の地に入ることができなかったのです。 

【詩篇106:32,33】
106:32 彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災にあった。
106:33 これは彼らが神の霊にそむいたとき、彼がそのくちびるで軽率なことを言ったからである。

さらに聖書はモーセの言った言葉にも目を向けています。それは小さな言葉に見えて神の聖なることを現さない決定的な言葉です。
「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか(民数記20:10)」
つまり、神の力による神の御業ではなく、「われわれが」と自らの力によって業を成すかのように言葉を出してしまったのです。
この瞬間モーセは神の栄光を自らのものとし、神はご自身の聖なることを、彼を通しては現すことができなくなってしまったのです。

モーセの小さく見えるこの神の聖なることを現さなかったという一つのことが約束の地に入らせることをゆるさなかったのは、約束の地に入った、後の時代のイスラエルへの主からの預言によって知ることができます。
今日の聖句の後半(申命記4:23-31)がそれに当たる部分です
この後約束の地に入ったイスラエルはやがて神の聖なることを忘れ、長くその地におるうちに、道を誤って、自らの力で、自らの栄光を求めて、自らのために生き、それが偶像礼拝となって、神以外の自らの祭壇を建てることとなります。
そうして約束の地に入ったはずの民が神の聖なる民となるどころか、神から全く離れて、主にねたみを起こさせ、主の目の前に悪をなして、憤りを引き起すようになります。
そうです。だからこそこのイスラエルを新しい地に導き入れる者は、徹底的に神の聖なることを現すために最も謙遜な者でなければならなかったのです。

【民数記12:3(新改訳)】
12:3 さて、 モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

今私達は神の御国を継ぐ約束を主からいただいていながら、しかしこの内に住まう聖霊によって神の御国の中に突入しているという事ができます。

【ルカ16:16】
16:16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

そういう意味において、私達はまだ約束の地、天の御国に完全に入り、そこに生きているわけではありません。
しかし私達は天に国籍を持ち(ピリピ3:20)、聖霊によって神の御国に先行して入り、その前味を先行してこの地上で受け取っている者(エペソ1:13,14)です。
そしてこの私達に先行して与えられている神の御国をこの地に顕現する者としてこの地に遣わされ(ヨハネ20:21-23)、そのことによってこの地を神の下に勝ち取る者、神の御国の現れをまたその神の統治をこの地に拡大して行く者とされているのです。
そうした意味においては、ヨルダン川の向こうの地を、神は勝ち取るよう語られている(申命記4:22)ところからも、今私達が歩んでいる、信仰によって世を神の下に勝ち取っていく、主に遣わされた者としてのクリスチャンの歩みの地ということができるでしょう。
しかし、ここで重要なのはこの地は神の聖なることを現すための地であり、モーセでさえ、その聖なることを現さなかった者は入ることをゆるされなかった地であるということです。
そして、それほどの厳粛な事実を受け止めて歩むのでなければ、私達はこの祝福に満ちた約束の地を、やがて神を退け、自らの祭壇を設けて、自らの手で祝福をのろいに変え、滅びへの道を歩む者となるということなのです。
今私達のこの国において、私達クリスチャンはそして教会はそのような厳粛さを認識しているでしょうか。
本当に神の聖なることを現す者となっているでしょうか。
この国の抱える滅びに真っ直ぐに向かっているいくつもの問題を前に、私達クリスチャンのこれまでの歩みが、そのような意味において、主の前にどうであったのかということを今問われているように思います。
私達が真剣に主の御心のみを求め、主の栄光が現れることのみのために、自分を置くこと。
これまでの歩みを見つめ主の前に私達は真摯に悔い改める必要があるのではないでしょうか。

共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【出エジプト17:5-7】
17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。

【ピリピ3:20】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

【エペソ1:10-14】
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
※ここの「保証(14節)」というは前金という意味があり先行して天の御国のその一部分を受け取るという天の前味を表す言葉として読むことができます。

【ヨハネ20:21-23】
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。