究極の勝利者としての道

2015年06月10日 20:26

【ピリピ4:11-13】
4:11 わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

私達は唯一神によってのみ強くなることができます。そして神によってのみ何でもできる者となるのです。
決して考え違いをしないでください。私によって何でもできると言っているのではありません。
私を強くしてくださる方、主によって私達は何でもできるのです。
大して変わりないことではありません。この違いは根底的な問題として大きく異なります。
植物が地から生えるとき、その土壌によってその植物の行く末が大きく異なるように、この差は信仰者の歩みとしてその行く末を大きく異ならせる大きな差となります。

【2コリント10:17】
10:17 誇る者は主を誇るべきである。

自らに強さを持つ者は自らを誇りますが、主に強くされて生きる者は主のみを誇ります。主はそのようなご自身にのみ栄光が帰される所にのみ主のご栄光を現されるからです。
自らを誇る者は自らの栄光を求める者です(ヨハネ7:18,19)が、そのような者に主はご自身を現しません。(1コリント1:27-29)
そして、そのような人は主を信じるということすらできなくなり、いつまでも自らを誇るために自らの力だけで生きるようになります。(ヨハネ5:43,44)
人はその生来の性質上、神を頼りとせず自分の力で生きようとし、またこの性質に引きずられて(ガラテヤ5:16,17、ローマ8:11-13)、神に心から信頼を置く(信仰)ことがなかなかできないのです。
だからこそ、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(13節)」というように、自らを誇りとするものを何一つ持たず、主のみを信頼して主のみを誇るということは簡単に見えますが、実は非常に難しいことです。
しかし、だからこそ自分の力でできることが小さく栄光として現れるのではなく神の全能の力によってのみ現される圧倒的な栄光の御業によって、私達はあらゆることができると確信を持って言うことができるようになるのです。
それを得るためにパウロはこの地において苦しい状況に幾度も陥りました(2コリント6:4-8)が、そのたびに主のよみがえりの絶大な力、神の全能の御力の現れ(2コリント4:8-11)により、全てのことに勝利を得、神の栄光を見たのです。
そしていよいよパウロは自らの置かれている外側の目に見える状況に一切よらず、神にのみに寄りすがり、神の力によってのみ、あらゆることをすることができるという、この地上のあらゆる法則や力を超えて(それらの全ては私達に対して死という結論に向かって進んで行くものですが、その死を超えて)、生きる圧倒的な力強さを神によってのみ持つ者として生きるという術を得た、その道を見い出したのです。
全能の主のみを見て、この方によってのみ生きる。
最もシンプルで、究極の勝利者として歩む道、それが信仰者としての希望の歩みなのです。

あなたは弱いですか?
困難に囲まれていますか?
ならば、この全能の主が現れ、真の主の栄光を知る時です。
うなだれる前に、さあ希望を持って主にのみすがり祈りましょう。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ7:18,19】
7:18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

【ヨハネ5:43,44】
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

【1コリント1:27-29】
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

【ローマ8:11-13】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

【2コリント6:3-10】
6:3 この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。