神の御旨の祈り

2014年11月12日 22:23

【1ヨハネ5:14,15】
5:14 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
5:15 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。

この御言葉を間違えて受け取らないで下さい。
「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。(1ヨハネ5:14)」と語られているのです。
神の御旨にかなわない祈りは神に聞かれないと語られているのではありません。
ですから、主に祈り求めたことが聞かれないのは御旨にかなわないからだと言わないで下さい。
そのようにして祈ることをあきらめないで下さい。
始めから主が聞かれていると信じずに祈ることほど、主を悲しませる祈りはないでしょう。
ここで主が語られていることは、「何事でも~願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということに重点が置かれているのです。

【ヨハネ14:12,13】
14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。

主は「なんでもかなえてあげよう」と語られているのです。それが主の思いなのです。
無力で自分では何もできない幼い赤ん坊の我が子に、「自分の力で何でもせよ。たまに手伝うから。」などという親はいないでしょう。
主から見る私達はその幼子よりも無力で、自分では何もできない、何も持っていない存在であるということは、火を見るよりも明らかです。
そのような私達に、私達の力で何かできると期待するでしょうか。要求するでしょうか。
いいえ、自分が親であるのであれば、何もできない子供にすべてのものを与えたい。注ぎたい。
自分がいなければ子供は生きていけないということを知っているからこそ、自分がその子の全てとなって、その子の願う全てをかなえてあげようと思うのではないでしょうか。
それが子への愛ですが、御子をも惜しまず私達に与えて下さった父なる神は、だから全てを与えたいと願わないはずがないのです。

【ローマ8:32】
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

では主の御旨とは何でしょうか?
例えば、その幼子が、その危険性もわからず刃物や火を使って遊ぶことを求めたら、それを与える親はあるでしょうか?
同様に、私達が自分のためにと、自分を目的として何かを求めることは、神の目には非常に危険なことです。
以前にもお話しましたが、人は善悪を知る木の実を食べたときから、自分が見え、自分の栄光のために生きるようになり、その結果自分の力で生きる道を選択し、神からそして永遠の命から離れて行ったのです。
神こそ命であるのに、この方から離れることは死を意味することであるのに、人は神から離れ、自分を目的とし、自分の栄光のために、自分のために生きるのです。これを肉と言います。
そして、この肉の思いは死であるのです。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

死に向かう私達の願いを主はそのまま受け入れられるでしょうか?
死に向かうからこそ、それを強いて願っても、とどめようとするのではないでしょうか。
それは主が私達を愛すればこそ。

【ヤコブ4:2,3】
4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

主の御霊は自分を目的として生き死に向かう生き方から私達を解放し、神を目的とし、神のために生きて、神を喜ばせようと私達の内に働きます。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

それは主の深い御旨である御言葉と何一つ違わず、主の御旨に私達を導きます。
なぜなら、主の思いを知るのは主の霊しかいないからです。そして私達の思いをよく知るのも、私達の内に住まう御霊なのです。

【1コリント2:10,11】
2:10 御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

【ローマ8:26,27】
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように主の御旨である御言葉と、主の御旨に私達を導く御霊の働きにより、私達ははじめて、死ではなく命(神)を求めて、主に祈ることができるのです。
主はそれをどれほど喜び、愛を持ってその祈りを受け入れて、主の全てをもってかなえようと望まれることでしょうか。

【ヨハネ14:14-17】
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。

ですから、私達が主のために生きようと願い祈る全てのことは、主が全て聞いて下さるのです。
それは同時に主が私達を愛して、私達のために、かなえてくださるのであり、実に主の御旨の中に私達への主の溢れるほどの愛が含まれているのです。

【詩篇138:8】
138:8 主はわたしのために、みこころをなしとげられる。主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。

そうなのです。ですから、私達は主の喜びのために、主のために、存分に祈りをささげましょう。
主の御言葉に立ち、主の御霊に満たされて、導かれて祈るなら、私達の祈りはたとえわがままで自分勝手な祈りであっても、そのような祈りに変えられて行きます。
そして、その祈りはやがてだからこそ、すでに主に聞かれていることを確信し、たとえまだその結果を受けていなくても、それをすでに受け取ったかのように、主への感謝と賛美の祈りへと導かれていくでしょう。
ですから、どのような祈りが聞かれるかなどと恐れずに、主の御前に祈り自体を、私達の願い自体を、素直に主の前に注ぎだし、主が御旨にかなう祈りへと導いてくださるよう、自らの全てを主にゆだねましょう。

私達の祈りに与えられている、主の絶大なる恵みと主の愛に、あなたが満たされますように。