祝福の訪れ

2015年04月30日 13:42

【創世記8:11】
8:11 はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。

祝福の現れはとても小さな所から始まります。
私達の生活は主に対してどのような関係であるか?ということに関わります。
主にいかに親しく主の近くにいるかという主との距離と、主に目を向けているのか、自分や他のもの、人に目を向けて神から顔を背けていないか、つまりはどちらを向いているのかということ、私達の主に対する心の有り様に関わります。
そして、その結果として、祝福された歩みをしているのか、のろいの道を歩んでいるのかがはっきりと分かれるのです。

【申命記11:26-28】
11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。

主から私達の心が離れると、主の御心(御言葉)から離れ、主が私達に本来備えてくださった祝福の道を離れて、のろいの道を歩む。掛け違え(罪)た道を歩むようになるわけです。
その罪の道は決して神に戻る道ではないわけですからその掛け違えは日に日に大きくなり、やがてはその生活全体がのろいに満ちたものとなるのです。
それは人の満足を求め続ける道ですから、人の目にはきらびやかであったり華やかであったとしても、あるいは自分の欲望をいかにも満足させる自分に良い道に思えたとしても、それは善悪を知る木の実がそうであったように(創世記3:6)、死に至る道の輝き、誘惑の輝きに他なりません。
それはまさにノア時代に洪水が起こる前にあった、人々の姿にあったと言えるでしょう。
まさに人々が罪を重ねて続けて悪を犯し、地をのろいに変えてしまったのです。

【創世記6:-57】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

またそれは決してノア時代だけに固定されるものではなく、神から離れ人の繁栄を求める全ての時代の人々の姿でもあり、まさにこの時代もこの国も罪の満ち溢れる只中にあるわけです。

ですから、私達もたとえクリスチャンと言えどもこの誘惑に常にさらされているわけで、ともするとこの誘惑こそが神の栄光の輝きのように錯覚し、あるいは世の常識こそが正しいような気になって、地上の輝きで天の御国の輝きを失い、世の常識で神の御言葉を失う生活をしかねません。
そうなると生活から徐々に神の祝福が失われ、のろいにすり替わっていくわけです。
それは非常に徐々に、生活の小さなことから、なぜかいろいろなことがうまくいかなくなり、全てのことがだんだん噛み合わなくなっていきます。
はじめは自分の欲望を満足させるために何かが得られるように感じるかもしれませんが、それがやがて全体で見ていくと歯車が狂ってくる。確かに人の目にはうまく行き、自分の考えの通りにことが進んでいっているように見えても、何かが狂ってくる。
主の栄光の現れではなく、罪の現れが生活を覆い始める。
それこそ、私達が救われる前に、罪の中に居たときと何も変わらない生活に戻っていくわけです。
主の祝福を失うことは実はとても恐ろしいことです。それこそがのろいそのもの、私達の命である神から離れることは死を意味することであり、死が生活を覆うと言うことだからです。

しかし主はその生活から神に立ち返るようにいつも望まれます。そうでなければ主は私達を祝福することができないからです。主の栄光を私達の生きる生活の中に現すことができないからです。
私達の生活を主の側に戻す、それが聖別です。
私達の生活を主の御言葉の基準に戻す。考えを御言葉中心に変える。自らの満足のためではなく、神が喜ばれることのために生きる。神の喜びを自らの喜びとする。信仰によって、神の栄光の輝きを見る。地上の輝きではなく天の御国の永遠の輝きを求めて生きる。
こうして私達の心を全く聖別する歩みを進めるとき、始めて主の祝福が戻ってきます。
まるで、ノアの時代に洪水が全てを飲み尽くし、この地上が神により聖別されたように。
しかし、私達の場合は主の裁きに滅びるという方法ではなく、主イエスキリストの十字架により、古き私達は死に、新しき命に、神にあって生きるために、よみがえるという方法で私達を聖別してくださいました。

【1ペテロ】
3:18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
3:19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
3:20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
3:21 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

私達の聖別は日々のことです。
生活において、私達の心が主から離れるのであれば、私達はすくにこの十字架の元にあわれみを求め、この罪を悔い改めて、日々罪をゆるされ、日々新しくされ、日々救われ続けて、主の救いの恵みを確かなものとする必要があります。
そのとき、私達に祝福が訪れるのです。
祝福の訪れは、今日の聖句にあるようにとても小さな訪れかもしれません。
洪水の後、ノアは箱船の中で、この小さな訪れを受け取りました。
オリーブは信仰にある祝福された生活を意味するもの(詩篇128:1-4)、その若葉はその始まりを意味します。
それはのろいの時と同様に、徐々に回復していく道のり。でも今度はもっと恵み溢れて、主の恵みには限りがありませんから、私達はその祝福に満ち溢れて歩む者となることでしょう。
主の祝福の計画は十字架にあって、すでにあなたの中に始められています。
さあ、共にこの十字架の前に主の聖別を願いましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記3:6】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

【詩篇128:1-4】
128:1 すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。
128:2 あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。
128:3 あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。
128:4 見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。