渇き潤す命の川

2016年04月17日 20:17

聖書箇所: エゼキエル47:3-10

神は天地創造の始めから、人につまり私達に万物を与えてくださいました。
それは神の愛と豊かさを存分に謳歌し、またその喜びを愛を神への賛美にささげ、神と共に全地を統べ治めるために与えられたものでした。
しかし、そこで人は神を退け、自らの目的、自らの満足のために、その欲望に全てのものを自らのものとしようとしてきました。
人はこの地の豊さ、つまり世が与える豊さのみを求め、神の無限の豊かさを退け神の愛を退けたのです。
同時にそのことは、神が私達と永遠に共に住まい、神の永遠の愛の中に一つとされて、幸いに住まうために主がくださった永遠の命を退けたこととなったのです。
まさに私達は、この世が与える豊かさを必死に求め、それが幸せだと思いこんで生きる社会のただ中に生きています。
ですから、それはクリスチャンであっても、その価値観の中に生き、ともすれば容易にその中にどっぷりとはまってしまって生活しているということは珍しくないのです。
しかし主は世を愛し、その豊かさを求め歩む者達の行く先を、黙示録の中に大淫婦の裁きと、それに心を奪われた者達の絶望的に落胆する姿を語り、私達に警告を与えています。
同様に人は時として、災害にあったり、人生の思いもよらないことなどで、全てのものを失うことがあります。
しかし、もしも世の豊かさだけしか知らず、それだけを頼りに、それだけを求めて生きていたならば、どうしてもう一度立ち上がり、希望を握って歩むことができるでしょうか。
神はそのような命に渇ける者達に、ご自身がまず渇く者となって、やさしい救いの御手を伸べてくださいます。
そう主が渇いておられるのは、渇ける魂に、そしてそれは主の目には大地を覆うばかりに、色づく畑に見えておられる。
主は十字架の上で「わたしはかわく」と言われ、ご自身の深い渇きを表されています。
誰がこの主の渇きを、そしてこの命に渇ける者達を潤すことができるのでしょうか。
主は、主の宮から静かに流れ出て、やがて深い川となるまでに溢れる、命の川のみがそれを潤すことができると語られます。
主の宮とは私達のこと、そして主の教会のこと。
そこから溢れる、主が十字架の上でささげられ、今私達の内に生ける聖霊の、キリストの命のほとばしり、全てのものを生かす川となって流れる命の川こそ、この全地の渇きを命に潤し、そのことによって主の深い渇きを癒し得るのです。
今私達はペンテコステの日、教会の誕生日と言われる、聖霊が天から傾注された日に備え、この命の川が私達の中から溢れ出るように、聖霊の満たしを神にこい願いたいと思います。
ただ主の御旨だけが、この全地になりますように。


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