永遠の救いの喜び

2014年12月31日 10:44

【イザヤ25:6-9】
25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
25:7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。

私達に与えられた救いという事実は永遠です。そしてすでに完成されたものです。
確かにまだ体こそ贖なわれず(ローマ8:23、2コリント5:1-9)、この地においてはうめき叫んでいますが、その内には永遠の命があり、霊において私達はすでに永遠の存在とされています。
この地にある全てのものは過ぎゆき消えて行くものですが、私達自身は永遠の存在とされているのです。
だから永遠の神の御国に生きている、天に国籍(ピリピ3:20)を持つ、天から来た存在(エペソ2:4-7)とされているのです。

【イザヤ25:8】
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。

【黙示録21:3-5】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。

まさに死は滅ぼされ、涙はぬぐわれる。それは先のものが過ぎ去り、すべてが新しくなったからです。
私達はここに神が奥義としてこの世の終わり、その後に完成される新しい天と地、永遠の都新しいエルサレム(「この山」イザヤ25:6,7)として、キリストの花嫁として、私達教会が花婿キリストと結婚し一つとなり、永遠に共に住まう、天国が完成する姿の中に表される私達の姿を見ることができるのです。
それは永遠の先にあるものではなく、救われたその日から私達に与えられたもの。
驚くべきことに永遠は私達の中にすでに新しい命と共に入り込み、この命こそ、天から来て天の国籍を私達に与え、永遠の先にある完成されたこの天国の奥義に、今私達を突入させるものなのです。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

この絶大なる恵み、完成された救いこそ、人の力では決して与えられないものであるということがわかるでしょう。
だからこそ、この救いは私達「自身から出たものではなく、神の賜物である(エペソ2:8)」としか言えないものなのです。
これがあなたに与えられた救いです。
どうでしょうか?
すでに私達の理解すらはるかに超えるこの恵みは、聖霊によりおおいが取り除かれ(イザヤ25:7、2コリント3:12-18)初めてわかるのですが、つまりは私達が神に祈り、賛美し、礼拝をささげるとき、この礼拝は天での礼拝にまで引き上げられ、一つとされ、全ての時間を超えて永遠の中に私達は入れられ、時間を忘れて主と交わるのです。
いつまでも祈りがとどまらないこともあれば、一瞬の間に時が止まったように永遠の礼拝をささげることもある。
私達は有限の時間の流れの中にいながら永遠に生き、地上に居ながら天の御国に生きている。
このような驚くべきことを日常の中に持つ者が、私達以外に世界中のいったいどこにいるでしょうか。
ここに私達が救いを受けたときに、如何に絶大なものを受け取ったのかということがわかるのです。
そうです。あなたは主に救われたあの日から、一日たりともこの驚くべき恵みから出されたことはないのです。
この中であなたの当たり前に見えていた一日は、あなたを通して地に天が入り込むように生きていたのです。
この中であなたは今年も、主の恵みの内に一年を過ごして来たのです。

救いの喜びを忘れていませんか?

ですから、今静かに目を閉じ、主に自らの全てをささげてみて下さい。
この世の喧噪を離れ、心にある全てのことを横に置いて、この救いを自らの命の代価によって与えて下さった、愛する主イエスにのみ心を向けて。
ただ静かに、主の安息の内に。
そう、そこに永遠の天の御国は溢れているのです。

【ローマ12:1,2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

【ピリピ3:20,21】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

【エペソ2:4-7】。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

【2コリント3:12-18】
3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。