日々新しくされる

2014年02月22日 18:23

【1コリント 1:22-24】
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

多くのクリスチャンがわかりやすい形での信仰の刷新を求めます。
信仰者として、何かに飢え渇き、求めている。そのことは悪いことではありません。むしろその飢え渇きがなければ、神から離れた命の通わない信仰生活を歩むことになるでしょう。
しかし、これを何によって得ようとするかによって、得るものは大きく異なります。
ある人はそれを、癒しや奇跡、不思議な業などに求め、それがなければ、信仰が今一つ生まれ変わらない、それさえ見れば、体験すれば、何かが変わるのではないかと考える。
神の神秘的体験、それを見ることが、神をさらに信じるためのしるしとなるのでしょうか。
またある人は、聖書を学び、信仰、神学を学ぶことによって、それを得ようとする。
それがどこまで積み上げればよいのかわからないけれど、いずれ学びを重ねた先に主を深く知ることができると考える。
また新しい真理、まだ解き明かされていない、あるいはあまり語られていない真理を得ることによって信仰が、目が開けたかのように刷新する。そう考える人もあるでしょう。

けれども、今御言葉は何と語っているでしょうか?
キリストの十字架の前には、あるいはつまずきとなるか、またこのことが愚かなことのように感じるか。それとも神の力、知恵たるキリストを見るのかしか、私達には結論がありません。
十字架は語り尽くされ、真新しさのない、ただの信仰の出発点でしょうか。
十字架を卒業し、新しい何かによらなければ、信仰は新たに生まれないものでしょうか。
十字架と真っ直ぐ向き合うことを心のどこかで避けていないでしょうか。
これはイエスを信じる者も、まだ信じていない者も、いずれも同様のことです。
人は神と真っ直ぐに向き合い、主に近づこうとするとき、人はむしろ自らのうちに神を避けたい、自分の都合のいい距離で神と向き合いたいという、神に背を向ける人の本質、「肉」というものに突き当たり、そして自らの力ではどうしても拭えない罪の源泉(原罪)を見るのです。
同時に、人はそこに神に裁かれるしかない存在である自らの姿を見る。
そこに立ち、十字架を選ぶか、退けるか。そこにはいついかなる時も厳粛な、神の救いと裁きしか存在しません。
十字架を選ぶ者には主の完成した救いの永遠の計画が与えられます。
全てのことは、全世界は、十字架を中心に、神の永遠の計画の中で、完了しています。十字架の御業が完成したとき、主の永遠の計画は完成したのです。
だからこそ十字架には、神の力、知恵、その全てがあり、その十字架の上にキリストが存在しているのです。
私達はこのキリストを、この十字架を私のものとして受け入れたときからつまり始めの愛を知ったときから、受け取っているのです。
このキリストは私達の新しい命として、私達の内に生きているのです。
ここに神の完全なる力と知恵が存在するのです。
この十字架の死と復活を日常の中に繰り返す営みの中に、日々私達は新しくされ続け、たとえ外見が衰えても、その内は新しい命で満ち溢れて行くのです。いや、この新しさを知れば知るほど、人は永遠という計り知れない基軸の上に、新しさを重ねていくのです。

今私達は始めの愛に立ち返りましょう。この十字架の他に完成された道は存在しないのです。キリストから目を逸らさず真っ直ぐに向き合いましょう。
そこにわき上がる新しい命が溢れるのです。
永遠の救いの恵みがあなたの内に溢れますように。