新しい命の感覚

2014年09月23日 09:15

【エペソ4:30】
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

新しい命として与えられ、私達の内に住まう神。栄光の望みである、私達の内にいますキリスト(コロサイ1:27)。
神の測り知れない力を持つ土の器の中にある宝(2コリント4:7)。
この一方的な恵みである、人知を超えた奇跡、神が私達の内に住まうということが今まさになされている。
私達はこの恵みを本当に知っているでしょうか?
この奇跡を実感しているでしょうか?
今日の聖句において、重要な一つのことが語られています。
聖霊には感情があるのです。だから聖霊は悲しむ。
そして、私達はこの聖霊の思いを知ることがゆるされています。
それはキリストの思いを知ることでもある。

【1コリント2:10-16】
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

主の思い、聖霊の思いを私達は、私達自身の思い、心とは別に私達の内に感じることができます。この聖霊との交わり(2コリント13:13)。ここに御霊に導かれる歩み(ガラテヤ5:16-18)があります。
主が何を喜ばれ、何に怒り、何を悲しまれるのか。第一に私達はこのような形で主の思いを知り、主に導かれるのです。
もしも、この主の思いを知りながら、自分の思いを優先し、この思いを退け、逆らうならどうなるでしょうか?
聖霊は悲しまれるのです。
このとき私達の心は神に逆らい、神から離れようとしているからです。
ここに罪の感覚が存在します。
この状態を放置し、主の思いを無視し続け、主を悲しませ続けることは、自らの自由(放縦)を求める思いの前には簡単のことです。
しかしこれは非常に危険なことです。
なぜなら、この聖霊の語りかけを無視し続けるなら、私達は無感覚になり、主を悲しませることを何とも思わず、何でもできるようなり、罪を犯し続けてしまうからです。

【エペソ4;17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ですから、この聖霊を悲しませるという感覚、聖霊の警告を無視すべきではありません。
その人はせっかく救われたのに、自らの足で永遠の滅びに日々近づこうとしているからです。
そして、その感覚は、逆らえば逆らうほど無感覚になっていくという恐ろしいもの。実はそれ自体がさばきであるのです。

【ルカ12:10】
12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

聖霊は、私達と神との直接の交わりを与えてくださる神の奇跡です。しかし、これに逆らい続け、拒み続けるならば、もう神の元に戻るための道を自らが閉ざすことになるのです。
この聖霊を受け入れたところから、私達の救いが始まったのなら、この聖霊を拒絶することは救いを拒絶し、滅びを日々決定づけるものとなるのです。
これが罪を犯し続けること、聖霊をけがす罪という恐ろしいことの結論です。
私達が聖霊を悲しませることは、とても小さく、簡単にそれを踏み越えることができるでしょう。
主は私達をゆるしてくださると、「これくらいはゆるしてください」と言いながら、簡単に神に罪への妥協を要求します。
しかし、主は私達の罪を悔い改めるなら、つまり神へと方向転換するなら、犯した罪はゆるされるのであり、決して罪を犯し続ける者を無条件にゆるされるわけではありません。
そのままゆるしを得ず、犯し続けた罪の、罪から来る報酬(ローマ6:23)は永遠の滅びであることに何の変わりはないのです。

ですが、このようなことのために私達は新しい命(聖霊)を受けたのではありません。
聖霊はやがて私達の体が全く贖われる日(ローマ8:23)に向かって、私達を証印として導くものです。

【1コリント】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

内なる聖霊のこの感覚は私達に神の国を継がせ(エペソ1:13,14)ます。
私達に朽ちないものを着させるために、キリストの花嫁として神の国に永遠に住まうにふさわしい者とするために、聖霊は私達を導くのです。

【2コリント】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ですから、主を悲しませることを求めるのではなく、主を喜ばせることを望んで歩み続けましょう。
そこには私達の肉の目には見えないけれど、霊の目には後の日の栄光を見続け、その栄光を求め続けて歩む栄光の歩みが広がっているのです。

【2コリント】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

今この主の思いに無感覚になっている兄弟姉妹がいるならば、主イエスの十字架の前に悔い改めて、主が喜ばれない全てのことを(罪を)、ひとつひとつ退け、取り除き(聖別)、主が喜ばれることをひとつひとつ選択して歩むように日々を変えていきましょう。
罪を求めるのではなく、主の栄光を求める生活を建て上げていきましょう。
主にあわれみを求めて共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【コロサイ】
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

【2コリント4:7】
4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

【ガラテヤ5:16-18】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

【ローマ6:15-23】
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。