新しい人生

2015年06月03日 11:45

【ローマ12:2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

クリスチャンとしての歩みを始めるとどうしても気になるのが世との接点、世との関わりです。
なぜなら、クリスチャンとして新しく生まれた、新しい命による、新しい歩み、この「新しい」ものに、世は矛盾している。それは世が私達にとって「古い」ものとなってしまったからです。
世は死の恐怖の元に、どう生きていくかということに必死です。
しかし、私達はすでにイエス様が十字架にかかり私達を死につけてしまった。つまり、私達はすでに死んだ者であって、さらにそこからイエス様と共によみがえった者です。
ですから、私達に対して死は何の力も持ちません。
そういう意味において、世にある常識(考え)や生き方は私達には全く意味を持たず、むしろこの死の恐怖に縛られた生き方から自由にされ、私達の内にある永遠の命、よみがえりの命の力によって死と逆行した生き方ができ、世とは正反対な生き方ができるようになるわけです。
世は、救いの岩、寄り頼むべき、全人生をゆだねられる神を知らないのですから、自分の力で努力して生きることを美徳とします。
しかし、どれほど善いと思うことをしたとしてても、どうしてもそれは自分のために行うことしかできず、偽善から真の意味で離れることはできません。
また死の恐怖が根底にあるからこそ、今楽しむことを望みますが、それは悦楽という意味での悦びであり、新しい命を与えられた者が知る、内側から溢れる喜びとは異なります。
このように、この世の法則と言ったもの、その考え方や生き方は、私達には何の役にも立たず、むしろ古い生き方に戻そう、世に戻そうとする力がそこには働くだけです。
だからこそ、私達は救われる前のこれまでとは、全く違う新しいものとなったということをまず認識するべきです。
これまでの古い生き方では生きられないことを知り、新しいものとしての生き方を求めるべきです。
そのことによって日々古い生き方から新しく造り変えられ、新しい性質(新しい命として与えられたのは聖霊なる神ですから、神の性質を持っています)を持つ新しい命にふさわしい生き方をするのです。
それは神を喜ばせるために神の望まれる(神の御旨)ように生きるという新しい基準での生き方。それが私達には最善の生き方なのです。
イエス様は私達のためにご自分の命をささげて私達を救ってくださいました。それほどに愛してくださったのですから、私達も私達の全てをささげ全身全霊を以て主のために生きることが主を愛することであり、主を喜ばせることです。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

そして同時に私達自身がこの新しく生まれたのは主のためであることを、その人生の全てで味わうことによって、神の喜びが私達の内側から満ち溢れて、新しい人生にふさわしい新たな生き甲斐を持った生き方ができるのです。
礼拝の中心はささげ物をささげることであることは聖書全体に語られていることですが、その本質は私達自身を主にささげる時、この地上では味わうことのできない天国の喜びに満たされ、神を喜ぶことこそが私達の生きる本分であることを知ることです。
それこそが毎週持たれる礼拝に出席することにとどまらず、人生の全てをもって主を礼拝し続けるという、主を最も喜ばせる生き方をすることとなるのです。

さあ、では新しい命を持つ者として、新しい人生を共に歩んで行きましょう。