教会とは

2014年07月12日 13:35

多くのケースの場合、「教会」という言葉の意味するところを、建物である「教会堂」あるいは宗教組織、団体としての「教会」を指すものであると思われがちです。
これはまず人間の限りある理解において、あるいは社会常識的な知識として、わかりやすい形での理解です。そしてその概念では、本来の「教会」という、神がこの地上に現そうとされている無限の計画を捉えきれることはできないでしょう。
では聖書においては教会はどのようなものとして語られているでしょうか?
聖書において、教会はエクレシア(ギリシャ語)という言葉で表され、召し集められた者という意味を持ちます。つまり、教会は神により召され集められた者、神により選ばれ呼ばれ集められた者ということがわかります。(ヨハネ15:16)
また、聖書において教会は以下のように表されています。

①神の宮としての教会
②キリストのみからだとしての教会
③キリストの花嫁としての教会

①神の宮としての教会
エペソ2:20-22,1ペテロ2:4-8
神はイエスキリストを自らの救い主と信じ、受け入れた者、つまりクリスチャンの内に神ご自身が新しい命として住まうという奇跡を定められました。(エゼキエル36:26,27,ローマ5:9-11,ガラテヤ4:6,7,コロサイ1:27,1ヨハネ3:24,4:13)これが聖霊なる神です。
つまり私達は聖霊の宮であり、神の住まい、神の宮なのです。(1コリント3:16,17,6:19)
この宮はひとりで完成するものではなく、キリストを隅のかしら石として、私達一人一人をつなぎ合わせて一つの神殿に完成されるのです。
だからこそ、私達が二人三人集まるところに主がおられ(マタイ18:19,20)、私達が集まり神に捧げる礼拝に神ご自身が臨在される(居られる)。それは私たち自身が神の神殿とされているからなのです。

②キリストのみからだとしての教会
私達は神の宮であるのと同時に、建造物のような無機質なものではなく、ひとつの身体のように有機的にキリストとつながります。
それはキリストをかしらとし、私達自身がキリストのからだとして、ひとりひとりが身体の各器官としての働きを持ち、からだを建て上げているのです。(1コリント12章,エペソ1:20-23)
神はこの私達の内に住まう聖霊を通して、私達一人一人に、召しと賜物を与えられます。それによって私達はその器官としての役割を担いからだにつなげられるのです。
そして、同時にそれは自分勝手な自らの意志で生きるのではなく、キリストの無尽蔵の知恵と知識を共有し、またキリストの心を自らの心として生きることであり、また神ご自身の持つ性質を自らの生きる中で現す者となり、そのように神と神の国の顕れを現す者として生きるのです。それが教会です。
教会に集うとき私達は私達自身の生活のことや、その問題、悩みといったことに向き合うだけではなく、むしろそれらのものをはるかに超えて私達の願いをかなえてくださる方を知り、さらに私達自身に本来与えられている生きる目的、神の壮大なご計画の一端を担う、それは世界の一端を担い、歴史の一端を担うということに触れることでしょう。
生きる目的生き甲斐というものはこの教会という神の壮大な計画の中で知ることができるのです。

③キリストの花嫁としての教会
神は聖書の結論を、神の御子キリストと、キリストを愛する者、キリストの花嫁たる教会との結婚という、結婚の奥義という形で定めています。それは永遠に神と私達が離れることなく共に愛し合い、共に住まうという、究極の神との交わりの姿。天国の完成の姿なのです。(黙示録21:1-22:5)
神はその結婚の奥義の約束を、人間の男女の結婚の中に置きました。つまり、キリストと教会の関係は男女の結婚の中にその型を見ることができるわけです。(エペソ5:22-33)
つまり、花婿キリストが愛する者達(私達)をその命をもって贖い、ご自身のものとされました。それがキリストの花嫁、教会です。
だからこそ私達教会は、この花婿を永遠に愛し、永遠に共に居たいと願い主の元に集い(礼拝)、花婿の計画(みこころ)がこの地に成り、また永遠の計画が完全に成就するよう願い(祈り)、またそのために生きる(献身、奉仕)のです。一日でも主の計画が押し進められ、主が再び来られる日(主イエスキリストの再臨)が一日でも早められるよう(2ペテロ3:11)、結婚の日を待ち望む花嫁のように花婿を待ち望む(黙示録22:12-20)。これが教会なのです。

以上のことから、教会はイエスキリストを信じ受け入れることにより救われた者、私達一人一人を言うものであり、同時に御霊(聖霊)により、(神の御子)キリストにあり、(父なる)神にあって、一つとされた普遍的な教会が、教会であることがわかります。
また、私達は神の計画を各時代、各地域に成就するために置かれた者であり(黙示録5:9,10)、そうした意味において、目に見える形で各時代、各地域に置かれているのが、私達が目にする各教会(地方教会)なのです。つまり一つ一つの教会、また私達クリスチャン一人一人は、普遍的教会の顕現した姿であり、そこに神の臨在が伴い、神の支配、神の国がそこに到来していることを現すものであり、また遣わされた各地、各時代を、神の権威により、霊的な意味において統べ治めるという重要な役割を持っているのです。

ですから、私達はどの教会でも自由に集い、また自らの選択で教会につながっているかのように思われているかも知れません。しかし、一つ一つの教会には神からの使命(召命)がその時代、地域、役割に合わせて存在するのであり、また私達一人一人にも同様にその教会に集いつながる神からの理由があるのです。
教会の存在は神の奥義であり、奇跡です。また教会は神のみこころが成る、神の愛と命に満ち溢れた聖なる場所です。
主が私達を召し集めてくださったという、厳粛な事実を噛みしめながら、共に主の前にいつまでも変わることなく集おうではありませんか。

【ヘブル10:23-25】
また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
愛と善行とを励むように互に努め、
ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。