愛ゆえの低すぎるハードル

2014年10月28日 12:49

【列王記下5:8-14】
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。
5:9 そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。
5:10 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。
5:12 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。
5:13 その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。
5:14 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

神がご自身の手で御業を行われる時には、人にそれほど大きなことを要求されるわけではありません。
人に奇跡自体を行うようなことを要求されることも、人の能力ギリギリの、ともすれば失敗するかも知れないようなことを万に一つも成功させなければ、神がお認めにならず、御業を起こさないと言うようなことはありません。
つまり、主が私達に何かを求められるときは能力的にはその本人には充分に可能なさして難しくないことを要求されるのです。
それは何のためにか。
神に従うかどうか、その行動で主への従順を告白するため、従順という主へのささげ物をささげる(サムエル上15:22,23)ためです。
そのために、主が要求されるそれらの簡単なことは、能力的には充分可能なことですが、人の目に映る状況や、そこから心に浮かぶ人の判断という部分を通すと、とても従いづらいものであることが多々あります。
つまり、自分の考えでは従いづらいが、主のみを信じるのであれば、その行動自体は非常に簡単というものなのです。

たとえば、出エジプト記で神が紅海を割って、イスラエルがその海の中を、かわいた地を通って救われ、それを追いかけてきたエジプト軍がかえって海に飲み込まれ壊滅したシーンで、モーセが要求されたことは「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。(出エジプト14:16)」とあるように、「つえを上げ、手を海の上にさし伸べ」ただけでした。海を割ったのは主ご自身です。
しかし、人の目に見えるのは前が海、後ろがエジプト軍という状況であり、人の判断は「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです(出エジプト14:11,12)」という主への恨み言となったわけです。

イスラエルの最初の王となったサウルも、王に任命されたすぐ後に、非常に簡単なことを主から要求されましたが、彼の判断で二度も主に従わず、結果主によってイスラエルの王から退けられることとなった(サムエル上13:11-14,サムエル上15:17-23)のです。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。

今日の箇所に於いて、ナアマンが要求されたことはヨルダン川の水で『身を洗って清くなれ』と言うだけでした。
しかしナアマンが考えていた「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。(列王記下5:11)」という信仰とは、そのあまりに簡単な要求は違いすぎて、ナアマンには素直に従うことが難しかったのです。
人はそれらしいものや、自分の納得しやすいものを求めてしまいがちです。
そこに偽りの信仰は入りやすく、さも神の業が起こされそうに見えるあるいは聞こえることに、心は簡単に捕らえられてしまうのです。
偽りの巧妙さは人の喜ぶ受け入れやすいものを人に提供し、真理から、神から、私達を引き離そうとします。
聖書が語るシンプルなただ主を信じ、主に従い歩むという信仰は、それがシンプルであるがゆえに、多くの人々が簡単に退けてしまうのです。
しかし、主は私達が自らの心に従うのではなく単純に主を信じ従うのであれば、天地万物を動かしても、ご自身の大いなる御業を現される方なのです。

【ルカ18:16,17】
18:16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
18:17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

主の望まれる信仰は、主の深いあわれみのゆえに、子供でも可能なシンプルで容易な低いハードルですが、その純粋無垢なシンプルさは大人にはかえって難しいものと言えるでしょう。

あなたが見ているのは自分の思いでしょうか、それとも神の思いでしょうか。
あなたが従うのは自分の思いでしょうか、それとも神の思いでしょうか。
もう一度祈り、聖書に聞いてみましょう。
私達の築き上げた信仰が自らの手で複雑で難しいものにしてはいないかを。
私達の持つ何ものにも頼らず、ただ主を信じ主に従う者に一方的に与えようとされる、神のあまりにも深いあわれみを、その大いなる御業を、妨げているのは自分自身であるかも知れないのですから。
全てを明らかにされる、真理であり、光である方の前に、この十字架の前に、共に祈ってまいりましょう。

※今回の聖書箇所になります。ご参照下さい。

【サムエル上13:11-14】
13:11 その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、
13:12 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。
13:13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。
13:14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。

【サムエル上15:17-23】
15:17 サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。
15:18 そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。
15:19 それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。
15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。