愛により待ち望む

2016年12月11日 19:40

聖書箇所: ルカ11:5ー13

私達は主が来られる終わりの日には主から報いを受けるのですが、その基準はまさに律法の中心と言われる神を愛することと隣り人を愛することです。
神に対して私達がどのようであるのかという基準に関してはこれまでも語られてきましたが、同様に神の愛する隣り人にどのようであるのかということも、実は神はずっと見ておられるのです。
主は私達の目的で私達の欲望を満たすために求めることを喜びません。
それは神を敵とし世を友とする視点。
しかしそれによって得るものはなくとも、隣り人のために求める者を主は豊かに恵み愛したもうことを語られています。
その観点でもしもルカ11:5-13を見るのであれば、「すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。【ルカ11:10】」という言葉も、その御言葉の求める動機が友人のためであるところから見つめることができるのです。
友のために神の豊かな満たしを求め、真理を捜し、神の御国の戸を叩き続ける。
まさにここに神の愛と兄弟姉妹の愛の満ちる教会の姿を見ることができるのです。
誰も一人で神の御許に辿り着くことはできない。そのように神の御許には教会の人と人との交わりが、そしてその基いに愛が存在してこそ、すべては始まると言えるでしょう。
このことは主が来られると私達に語られる今にこそ必要な視点と言えるでしょう。なぜなら、主が来られる時主はご自身の民を四方から集められ、神の宮をまた都を建て上げるからです。
しかし、今日実際の教会の人と人との関係に目を止めるのであれば、何と多くの兄弟姉妹が、傷つけ合い、怒り、妬み、憎み合っているのか。
何とか表面においては体裁を保っても、その愛は冷えており、そのようなことが如何に永遠の神の宮である教会を痛ませ腐敗させて来たことでしょうか。
だからこそ、ご自身隅の頭石となり、すべての敵意を十字架につけ、主は私達を永遠の愛によって、本来の主の宮として一つに建て上げようと、私達にその敵意を十字架の愛の内に捨てるよう語りかけておられるのです。
まさにこの永遠の宮に住まうため、ご自身の命を十字架にささげられるために神の御子がこの地に来られた。
それがクリスマスです。
互いに主が再びこの地に来られるその日まで愛し、建て上げ合う。主が永遠に私達の内に住まわれるために。
今年主の降誕を待ち望む、主が来られる日を待ち望むこの時に主が語られる御思いに、私達も心から耳を傾けていこうではありませんか。

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