悔い改めの恵み

2014年11月27日 09:29

【詩篇51:1,2】
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

私達が自らの罪を悔い改めるとき、私達に言い訳や隠し事は一切必要ありません。
万事を見て、全てを知っておられる神の前に、私達はその心の内までも全て知られており、この方の前にそれらのものは無意味だからです。
自分の手で、力で、罪を何とかしようとすることも意味はありません。
人は罪を犯しそれを自分で何とかしようとすると、奉仕をしたり、信仰深いような行動を取ったり、何か良いことをしてその罪の埋め合わせをしようと、罪滅ぼしに何かをしようとしたり、罪を償おうとしますが、それは罪に対して何の意味もないのはいうまでもありません。
私達がこの罪を自分で何とかできたのであれば、主イエスの十字架は必要なかったわけです。
つまり、この罪の問題は、神のあわれみによってのみ、ゆるされ、きよめられるものなのです。
ですから、御言葉のように主のあわれみを、主に素直に願うしか私達にはどうしようもありません。

【詩篇51:3,4】
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

そして、そのためには私自身がどのような罪を犯したのかを知らなければなりません。
つまり罪の自覚のないところに罪の悔い改めは存在しないからです。
自分がどのような罪を犯したのかわかりやすい部分はそれを自覚することは容易いでしょう。

【詩篇51:5,6】
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

しかし、その罪には表面に見える部分だけではなく、私達が生まれついて罪の性質を持つからこそ、その深い部分、自分の自覚していないところに、その罪を犯した原因が存在していたり、根源的な罪を取り除いてもらう必要があるのです。
それは私達自身にはそれを知り得る術がありません。
ただ主により罪を照らし教えていただく他はありません。

【詩篇51:7-10】
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

罪は私達の何らかの方法、ノウハウで、きよめられるものではありません。
主イエスの十字架の血潮により洗われる他、罪をきよめることはできません。
そして十字架につけられ主と共に死ぬことでしか、私達が新たに造られる方法はないのです。その肉にあって私達はキリストと共に死に、まただからキリスト共によみがえることでしか、私達が新しくなることはないのです。
そこに私達は新しい命(霊)を受けるのです。

つまり、私達は自分の罪を神の前に、四の五の言うのではなく、まず主イエスの十字架の前にひざまづき、主の光に一方的に照らし出されて罪を知り、その罪を心からその十字架のあわれみにあって、ただゆるしをこい願い、十字架の血により一方的にきよめられ、主の死とよみがえりにあって、その内から溢れ出す新たな命により全く新しくしていただく他はないのです。
その全てはこれでわかる通り、私達は十字架の前に出る他なく、全ては主イエスにより一方的に新たにされる他はないのです。
でないならば、私達は根底的に神に背き、神に敵する、生まれ持っての罪の性格から、救われることはなく、そのように根底的に命から新たにされなければ、その命の持つ性質から神を愛し、神に近づき神と一つとなり、神に喜ばれるものとならなければ、何一つ私達は新たにされることはなく、根底的な解決はないのです。

そのことにより私達は初めて、生きる目的、そして生き方から、神に立ち返ることができるのです。
この根底的に神に向いて人生ごと(命ごと、性質ごと)方向転換をすることが悔い改めです。

【詩篇51:11,12】
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

悪いことをしたら、ごめんなさい。ありがとう。で全部帳消し。あとは何をして生きても、また罪を犯したら、どうせゆるしてもらえる。というものが悔い改めではありません。
もしそうであったら、あなた自身は何も変わる(方向転換する)ことなく罪を犯し続け、その結果罪を犯すことに麻痺して、その行く先は立ち返る方向を失い神から背を向け逆らい、折角の救いを無にするようなことになりかねないのです。
罪のゆるしは真剣に主に向き合い、主に立ち返る以外に道はなく、そうでなければ救いすら無意味なものとなるのです。

【詩篇51:13-15】
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

私達をこれほど根底的に新たにし、これほど大きな罪からのゆるしであるから、私達の真の悔い改めにおける喜びは大きく、だからこそこの恵みを人々に証しせざるを得ないのです。
その唇は主をほめたたえ、とどまることのない賛美と喜びは人々を神に立ち返らせるに充分な命の力を溢れさせるのです。
まさに真剣な悔い改めは、人々の心を刺し、自らの罪を自覚させて更なる悔い改めを生み、多くの人々が神に立ち返る結果をもたらすのです。

【詩篇51:16-19】
51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

私達の真の礼拝は、この十字架の前から始まります。
真に悔い改め、主のものとなり、主に自らをささげるまで、私達の心が砕かれるのでなければ、形式だけの礼拝が繰り返され、やがて人々は飽き飽きしながら義務としての礼拝をささげ、神にその見返りに恵みを求めるような、心のない礼拝をささげることとなるでしょう。
それを主は好まれるはずはありません。
イスラエルはそのような、形だけの礼拝を繰り返し、罪による死から救い、命を与える救いの君を十字架にかけ、自らの救いを遠ざけ、今なお離散しているのです。

今の私達はどうでしょうか?
その心は、その歩みは、そのささげる礼拝は主を喜ばせているでしょうか?
今真剣に主の十字架の前に出ましょう。
クリスチャンでありながら、救いを遠ざけてしまわないために。
主に与えられた新しい命にふさわしく、主を愛し、主を喜び、主を喜ばせて歩んでいくために。

共に祈り、主の十字架の前に出ましょう。

※今日の御言葉は

【詩篇51篇】
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの

とあり、ダビデの本来ゆるされざる、姦淫、殺人等、さまざまな罪を犯したときに、真の悔い改めの内にゆるしを得た、私達に与えられた主イエスの十字架の贖いを先駆けて恵みとして受けた、罪の悔い改めの本質が表されている詩篇です。
「主が来られる日は近い。悔い改めよ。」と主から語られている今。この悔い改めの本質にもう一度立ち、私達自身が神に立ち返って、リバイバルの基として、悔い改めの波の中心に立つ必要があるのです。
どうか、今ひとたび真剣に御言葉に耳を傾けていきましょう。