実を結ぶ信仰

2014年10月26日 19:10

聖書箇所: ヨハネ15:1-17

主はご自身のこの地に来られる時を定め、その時までに私達が実を結んでいることを望まれます。
その時とは、終末の様相つまりそれは罪が熟する様相をであり、その熟する時が来たならば、主が来られるのは近いというものです。
その意味からするならば、この国の重ねてきた罪が今まさに熟する様相も、主ご自身が来られる時が来ていることを知らせるものであると言うことができます。
主は救いを持ってこの地に来られることは、同時に裁きを持ってこの地に来られるということであり、私達が実を結んで主をお迎えするか否かで、どのように主をお迎えする立場となるかがはっきりするというものです。
それは、実を結ぶ者は永遠に至る命の実を結び、多くの人々を救いに導く者となるのであり、主の救いの計画をこの地に成すための備えとして実を結ぶという、主が満足される愛と喜びの実を結ぶからです。
そこで、実を結ばせるために主は私達にどのようなことを望んでおられるのでしょうか?
主に私達がつながり続けるということ、御言葉にとどまり続けると言うこと、そしてそれにより父に求めるものは何でも主は与えて下さるのであり、それにより結ぶ信仰の実が、命に、愛に、喜びに満ちた実を結ばせるのです。
今回はヨハネ15章におけるぶどうの木の話から、私達が主をお迎えするまでに、いかに実を結ぶ信仰者となるべきかについて、共に分かち合いたいと思います。


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