共に歩まれる方

2014年11月07日 12:04

【ヘブル2:17,18】
2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
2:18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

何という慰めでしょうか。
もしも、神がご自身の高き御座に居られたままの方であるならば、神の思いは私達には高過ぎて、その計画は大き過ぎて、神は私達の日々の生活を、そこで出会う試練の数々を、その苦しみを、悲しみを、知らない、わからないと言っていたでしょう。
しかし、主イエス、神の御子である方は、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた(ピリピ2:6-8)」のです。
実にご自身が、私達のたどるべき最も低き場所、小さき場所、貧しき場所、を通りこの地上を歩まれた。

【マタイ9:35,36】
9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。

【マルコ6:33,34】
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。

ご自身がそのような場所に生まれ、育ち、生きられたから、人目に見捨てられたような者でさえ、主の目には忘れられていなかった。
主と出会えた多くの者達が、実に寄る辺なき惨めな者、小さな、弱き者達だった。
いや、主が向き合い、あわれまれて、語りかけ、触れ、癒し、教えられたほとんどの者達がそのような者でした。

【マタイ8:16,17】
8:16 夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
8:17 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。

【イザヤ53:2-5】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

そして、主の成されたのは私達とは一切関わりなく神の御業を現したというものではなく、ご自身の身に私達の苦しみ悲しみそして罪を負ったもの。
何一つ私達と変わらない人となられたからこそ、私達に寄り添い、私達の思いを最も近く知る方となられたのです。
無限の神であられる方であるのに、その方が人という有限なはかなき小さな存在になられただけでも、考えられない奇跡であるのに、およそ私達の中の最も低い者となって、その全ての苦しみ、悲しみを、その身に負われた。
真のとりなし手、大祭司である主イエスは、このように私達と「あらゆる点において...同じようにならねばならなかった」のです。
そして、実に「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされ(2コリント5:21)」ました。
神の子であられた方が、弟子達にさえ見捨てられ、ただ一人孤独に全てを負って十字架を担い、辱められ、罵られ、卑しめられ、痛めつけられ、傷つけられ、神にさえ見捨てられ、十字架の刑罰にかけられた。
私達が受けるべき永遠の滅びという神の裁きをご自身に負われたのです。

【マタイ27:38-46】
27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

「それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるため(2コリント5:21)」に他なりません。
だから、誰も神は私の気持ちなどわかりはしないと、いつ如何なる時も言うことができないのです。
彼は今のあなたの悩みを、痛みを、嘆きを、苦しみを、悲しみを、この地上であなた自身よりも、もっと知っている方なのです。
たとえ、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである(ヘブル12:5,6)」とあるように、父なる神が「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、(ヘブル12:10)」私達に試練を与える時があったとしても、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(1コリント10:13)」との言葉は、主イエスご自身がまずのがれの道となり、私達を助けて下さるということでもあるのです。
まさに「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。(ヘブル2:18)」とある通り、私達がその試練の中でどのような思いで忍耐しているかということを、最もよく知り、私達に寄り添い、迷うことなく永遠の希望(ローマ5:4,5)へと私達を導き、この永遠の中で神をほめたたえる者へと成長させて下さるのです。

【1ペテロ1:6,7】
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」

だから、仮に今ある苦しみが、悩みが、私達には意味がわからなくても、自分がどこにおり、どこに向かって歩んでいるのか、いつまでこれが続くのか、何もわからなくても、大丈夫なのです。
この主イエスキリストが常にあなたの傍らに(内に)居てあなたを導き、助け、成長させて下さるのですから、意気消沈したり、絶望したり、また神の思いを誤解することなく、この方に身をゆだねて、今日も信仰の歩みを永遠の深みへと一歩踏み出していこうではありませんか。
共に主のなぐさめとあわれみに感謝し祈ってまいりましょう。

【2コリント3:18】
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

※今日の引用箇所です。

【ローマ5:2-5】
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。