全てを満たす神

2014年10月19日 19:39

聖書箇所: 詩篇81篇

これまで主が私達に語られ続けてきたこと。
主がこの地に来られるということは、主が私達を満たし、主ご自身が私達の全てとなられようとしているということです。
主ご自身が私達の内に満ち溢れようとしておられる。
かつてイスラエルの民は、今の私達と同様に主の選びにあって、主が導かれ、エジプトを脱して、アブラハム、イサク、ヤコブに約束に約束された約束の地カナンへ向かう途上、四十年に及ぶ荒野の生活において、その姿によって、私達に重要な警告を与えています。
荒野の生活は人の目に見るのであれば、生きるために必要なものが何もない、人の目には人の力では生きることのできない危機的生活。
しかし、神の御旨においては、生きる全てを主が満たそうと、主ご自身が人の全てとなられる、これほどに主がご自身溢れる愛を人に現される機会はなかったのです。
ところが、イスラエルの民は目に見える試練に、神に逆らい続けました。
ですから私達への警告とは、たとえ主の選びの民であっても、かたくなに主に逆らい続けるのであれば、神は私達を本来主が望まれるように、主の安息の内に入ることできないということなのです。
その不信仰、不従順は、主にある安息を遠ざけ、むしろ自らを自らの手で主のご計画から遠ざけることとなるのです。
その逆に信仰によって安息に導き入れられるならば、主の豊かな満たしを受け取ることができる。
いや、むしろ主は今私達の内に私達の全てとなられて、主ご自身が満ち溢れたいと願っておられるのです。
そして、私達が主の前に全く安心して口を広く開け、主の満たしを受けることを心から望んでおられるのです。
今回は、この主の満たしをかたくなにならず、口を広く開け受け取るための私達のあり方について、共に分かち合いたいと思います。


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