信仰の明暗

2014年10月17日 12:51

【エペソ5:5-14】
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい__
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである__
5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

ここには二つの信仰者の姿が現されています。
それは光にある者とやみにある者。
そして、やみにある者をすでにここでは信仰者としては見ておらず、兄弟姉妹にその仲間にならず、そこから離れなさいと明記しています。
私達は救われたときすでに「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。(エペソ5:8)」とあるように、やみから光に移されています。
しかし、やみのわざに加わり、やみにある者達と仲間となるなら、やがて光にある者もやみへと陥っていくのです。せっかく光に移された者がやみとなること、それは「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。(エペソ5:5)」とあるように神の国をつぐことがないという、最も虚しく、最も恐ろしい結論を生むこととなるのです。
救われたはずの者が神の国をつぐという神の選びから外される。
確かに選ばれた民イスラエルも、その選択肢において、どのように歩むのかによりその結論は大きく異なったことを聖書は語っています。

【申命記11:26-29】
11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。
11:29 あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。

選ばれた民には二つの選択肢が存在します。
それは主に従い、主を愛して、主の民として生き、命と祝福を得る道と、主に従うよりも自らの思い(欲求)に従い、自らを愛して、主から心離れて生き、死とのろいを受ける道。
まさしくそれは、今日語られている、光とやみ、どちらにあって歩むのかと同じことを意味しています。
さらにそれは聖書の始めから、存在する選択肢でもあります。

【創世記2:8,9】
2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
2:9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」

とあり、そこには主が明らかに一つの選択肢を選ばないように命じておられる。それを選択するのであれば「必ず死ぬ(新改訳)」と主は人に語っている。

【創世記2:16,17】
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

もう一つの選択肢、命の木こそ永遠の命に通じる道、「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない(創世記3:22)」とその行き着く先は人には語られておらず隠された奥義でありながら、それを見出し選択するのであれば永遠に生きる道であるのです。
つまり、光を選らぶかやみを選ぶか、それは信仰者の永遠において明暗を分ける、大きな選択肢でありながら、創造の始めから本人の選択のみを主は見ておられる。
ここに自由意志における選択が存在しているのは、自らの意志において主を選択する者を、主が欲しているからに他ならず、ロボットのように最初から神に従うような人を造っても意味がなかった。
つまり、自ら喜んで主を選び、主に従い、主を愛する者でなければ、自らの全てを与えるほどに私達を愛しても、神には何の意味もないのです。
たとえ誰に誘惑され、どれほど多くの人がやみを選択しても、光を選ぶ者のみを主はご自身のものとする。
神の前には、他人のせいや何かのせいに言い訳することはできないのです。
すでに救われるとき選んだ選択肢は信仰生活を歩む長い道のりに、常に二つ存在し、主は私達に「光の子らしく歩(エペソ5:8)」ことを望んでおられるのです。

【ヨハネ3:17-21】
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

この選択肢を選び続け歩むための視点が、今日語られた御言葉の真ん中に存在する、「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。(エペソ5:10)」という言葉なのです。
私達は聖書の中から主がどのようなことを喜ばれるのか、語られる言葉を通して知ることができます。
同時に私達の内に生きる聖霊は、主の喜びを内からわき上がる喜びとして私達に教えるのです。
どのようにひとつひとつの行動を選択し、日々をどのように選択するのか、それは「主よ。あなたの喜ばれることは何ですか?」という祈りの内に、私達の日々の中に実を結んでいくのです。

今日あなたはどのように生き、主を喜ばせますか?
主の永遠の喜びがあなたを今日も包みますように。