主を知っていますか?

2014年11月05日 12:29

【マタイ22:41,42】
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、
22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

「あなたがたはキリストをどう思うか(マタイ22:42)」
この言葉にどう答えるかによって、私達の未来は決定します。
そして今の生き方が自体が変わるのです。

この質問を主イエスがされたときは、パリサイ人が主イエスに集まり信仰問答をしているときでした。

【マタイ22:15】
22:15 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。

このパリサイ人は、ユダヤ人の中で当時の「宗教の最も厳格な派(使徒行伝26:5)」に属する者達だったのです。
つまり、知識においては当時救い主キリストとはどのような方であるかということを最もよく知っている者達だったでしょう。
そして、律法を守ることに於いても厳格であったのですから、当時の人々の中では、人間的には最も優れた信仰者であったと言えるでしょう。
しかし、彼らは目の前にいる方をキリストだと答えることができなかった。

結果この後自分達を救うために地に来られた救い主を、彼らは自らの手で十字架にかけてしまい、待ち望んだ救いを彼ら自身が遠ざけてしまったのです。

【1コリント2:8-12】
2:8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

このことは私達自身にも同じことが言えます。
いくら信仰的な知識を積み重ね、厳格に信仰を守るような信仰者としての歩みを見せていても、目の前に生きて共に居られいる主をキリストと知らなければ、救い主としても、神としても、何の意味もないのです。
それは私達の人生に何の関わりを持たない、何の影響も与えない、何の力もない存在となってしまうのです。

実に主を知るとは、人の知恵にも、力にも、学歴にも、社会的な地位にも、富んでいても、貧しくても、一切人によるものはなく、神によってのみ成された神の御業なのです。
むしろ、神の栄光を現すのは主のみにすがりより頼む他ない者達、自分に何ものもないから自分を誇れず、神のみを誇るしかない者達によるのです。
そうして、私達は一方的な主の恵みにより主を知ったはずなのです。

【1コリント1:25-31】
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

また、人の信仰を借りて、主イエスとの関係を持つことはできません。

【使徒行伝19:13-17】
19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。

いくら主イエスの名を知っていようとも、あるいはどれほど素晴らしい、信仰深い信仰者を知っていようとも、キリストを救い主として、神として信じて、知って、共に生きて行くのでなければ、何の力もありません。
いや、その絶大な力と権威を持つ神の御名は、それを信じる者のうちにしか、この方を知る者のうちにしか、働くことはないのです。
信仰とは各々各自の神との関係であり、誰かがあなたの代わりに食事をすることができないのと同様に、信仰も誰かが代わりにはなれないのです。
誰かから見聞きしたことではだめなのです。

【ヨハネ17:3】
17:3 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

【ヨハネ3:36】
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

遠くから主に近づかず、紙に書かれただけの信仰、あるいは人が持っている信仰を使って、主と交わることなしに形だけ信仰者であっても、あなたが主を知っていることには決してなりません。
しかし、あなたに近づこうと手を伸ばし、深い交わりを与えて下さり、実にそのためにあなたのうちに今住まわれる神は、主ご自身を知り、信じ、主に従うことが永遠の命であるとあなたに語りかけているのです。

【ヨハネ5:38-42】
5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。

あなたは主を愛しているでしょうか?
あなたは、主にどれほどに愛されて今生きているのかということを知っているでしょうか?
あなたの主への愛は冷めていませんか?
主を知ることは、主の愛を知り、主を愛することから始まるのです。

「あなたがたはキリストをどう思うか(マタイ22:42)」と今あなたが主から訊ねられたなら、「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ16:16)」と、今生きてあなたの傍らに共に居られる方に愛と信仰を持って、本当に答えることができるでしょうか。
それがあなたと神との本当の距離(関係)なのです。
あなたの永遠の命のために神との愛の関係を建て直しましょう。

【ヘブル12:2(新改訳)】
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

信仰が生きて自分のものでないなら、パリサイ人と同様に目の前にいても主イエスを見ることはできません。

あなたの信仰の目は、主イエスを確かに見つめていますか?

共に主に祈りましょう。

※今日のメッセージの引用箇所です。ご参照下さい。

【使徒行伝26:1-5】
26:1 アグリッパはパウロに、「おまえ自身のことを話してもよい」と言った。そこでパウロは、手をさし伸べて、弁明をし始めた。
26:2 「アグリッパ王よ、ユダヤ人たちから訴えられているすべての事に関して、きょう、あなたの前で弁明することになったのは、わたしのしあわせに思うところであります。
26:3 あなたは、ユダヤ人のあらゆる慣例や問題を、よく知り抜いておられるかたですから、わたしの申すことを、寛大なお心で聞いていただきたいのです。
26:4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。
26:5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。