主を喜ばせる行い

2014年07月17日 13:21

【2サムエル2:4-7】
時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、
ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。
どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。
今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。

人に対する態度は、自分の神に対する態度に通じるところがあります。
神を愛し、神に仕え、神のために生きると口で言うことはとても簡単です。
しかし日々の生活の中で、そのことを思い、いついかなるときも全ての行動の基盤をそこに置いているのであれば、それは自然に日々の行動に現れます。

【エペソ6:6-8】
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。

そして、全ての行動の根底に何があるのか、人にはわからなくても、神はその心の奥底をご存じです。
やがて主イエスが再びこの地に来られ、このダビデ(王である主イエスキリストの型としてここでも見ることができます)のように、全地の王としてこの地を治める時には、主はこれまでの私達の心からの行いをもって、私達に報いてくださるでしょう。

【2コリント5:9,10】
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

なぜなら、主ご自身のために私達がしてきたことを、主が喜ばないはずがないからです。
そして、その喜びは今私達がどのように行動すべきかを決め、行う段階から私達は味わうことができるのです。
なぜなら、主を愛し、主を思い、主のために主の御心を行なおうと行動を選択する段階から、私達は聖霊を通じて、私達の心の中に主の喜びが満ち溢れ始め、いかなることにも心揺れることのない平安で心が満たされるからです。
逆に言うならば、この平安と喜びによって、私達は今何をすべきか、何が神を喜ばせることなのかをはかり知ることができるのです。

今日あなたの一日はどのような一日でしょうか。
主に喜ばれる日々が重ねられますよう心からお祈り申し上げます。