主の訪れに気づく

2014年07月10日 07:48

【ルカ4:16-21】
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

主イエスが語られたこの御言葉は【イザヤ61:1,2】の預言です。
それはイエスがこの地上に誕生されるはるか昔に預言者イザヤによって語られた預言。
そして、その預言が「この日に成就した(21節)」と、大いなる希望をもって主が自らの唇で語られています。
はるか未来の預言と思われていたもの、それがこの日成就したと語られたのです。
今、この言葉は同様に私達にとってははるか昔に語られた言葉に思われるかも知れませんが、今の私達に語られています。
主が今生きておられる。私達のうちに。
この事実はこの御言葉が、今のあなた自身に、そして今向き合っているあなたの現状に、明らかに光を差し入れる希望の言葉であり、これはただの慰め、ただの気休めの言葉ではないのです。
この時代、主イエスに出会った多くの人達がいました。しかし、この時まで多くの預言者を通して語られた、救い主に関する預言(メシア預言)の言葉の一つ一つが、自分に何ら関係のない、ただの気休めの言葉として、あるいは自分から遠い場所で起こるおとぎ話のように捉えていたのであれば、どれほど近くでイエスに出会えたとしても、この方が自分の救い主であることに気づくことはありませんでした。
そのように多くのイスラエルの民はイエスにつまづきました。目の前に居る救い主に気づかず、やがてはその救い主自身を自分たちの手で十字架につけてしまったのです。
そのことは今の私達にも同じことが言えます。
今あなたに語られているこの御言葉があなた自身にあまり関係のないことのように、日常の生活に追われるままに日々を過ごしているのであれば、あなたのうちに居られる方がどれほど絶大な方で、あなたの人生を全く変えるほどの神の大いなる御手があなたに伸べられていたとしても、あなたはそれらには全く関係なく、つまり救い主はあなたの人生に直接的には何も関わることなく、あなたは人生の大切な時間の大半を過ごしてしまうでしょう。
でも、この方は今生きてあなたを救う救い主なのです。
あなたを罪に捕らえられた生活から解放し、だからこそあなたを囚人のように捕らえる全てのものから解放すると、今主は言われます。
そして、問題だらけ、悩みだらけ、苦しみだらけ、悲しみだらけ、死とのろいの満ちる地上で、希望の光を、いずこともなく盲人のように探し求める、あなたの目に光を与え、その目を開かせて真の希望が如何に絶大なものなのかを知る者としてくださると主は今語られているのです。
そして現実に打ちひしがれているあなたに主イエスにある真の自由を得させ、救い主のめぐみの年が今来ていることあなたに告げ知らせていると言っているのです。
なぜ、なおあなたは、何も与えられていない者のように、他の何かに希望を求めたり、自らの小さな小さな手でわずかな希望を握りしめるように、小さく背を丸めて、目の前にあるものだけを見ながら、ため息とあきらめだらけの人生を歩む必要があるでしょうか。
あなたの信仰の目を開くなら、そこにあなたの救い主は生きて居られるのです。

どうか、今生きてあなたに働く主の大いなる愛に、あなたが気づきますように。主の知恵と啓示の霊をもって、あなたの目が今開かれますように。