主の細い御声

2015年06月01日 21:14

【サムエル上3:10,11】
3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
3:11 その時、主はサムエルに言われた

確かに全てのクリスチャンは主の声を聞くことができます。
それは聖霊によって文字通り言葉として聞くこともあるでしょうし、あるいは幻あるいは夢など、また聖書そのものから心に響きわたることもあるでしょうし(誰しもそのような経験は一度ならず経験することでしょう)、その人によってどのように聞こえるかは異なります。(ヨエル2:28,29、エレミヤ31:31-34)
しかし、いずれにおいても主は、ご自身の霊である聖霊を通して、直接私達に語りかけその思いを親しく交わり聞かせてくださるという約束を、ご自身の溢れる愛と恵みと共に、私達に与えてくださっていることに変わりはありません。
ただし、主の御声を聞かせていただくには私達側に主の御声に耳を傾ける備えが必要であるということが、今日の箇所からよくわかります。
主の御声は決して大きいものではありません。
むしろ人の耳にはとても小さく、自分の思いが心の中で大きいと、神の御声を聞くことはできません。
そういう意味ではどれほど自分の思いが小さくしてもなお、人は自分の思いが大きいものですから、私達にとっては主の御声は小さい囁くようなほどに細い声である(列王記上19:12)と言うことができるでしょう。
ですから、主の御声を聞きたいと望むなら、私達は私達の事情や思うことや常識や経験則などの私達側から溢れる、神の目から見れば無意味な全てのことを、横に置かなければなりません。
でなれば、神が私達に聞かせたいと思う言葉とは、いつまでも平行線のまま無意味な言葉を並べ立てて(ヨハネ5:2-8)、神のせっかくの言葉を退けてしまうことになるからです。
また、決して自分が聞きたくないようなことを、主は私達に語られることもあるでしょう。
時に神の御言葉は人に厳しいのです。
それは人の心の隠れた事柄を照らし出し、罪を明らかにし、刺し通し(ヘブル4:12,13)、あるいは砕き、あるいは悔い改めに導き(1ヨハネ1:5-8)、あるいは裁き、あるいは警告し(エレミヤ1:9,10)、およそ生来の人の思いには喜ばし思えない(ローマ8:5-8)言葉を聞くことになるかも知れません。
だとすれば、なお私達の思い(肉の思い)は、そのままでは主の思いを退けることしかしないでしょう。
しかし、罪に走り滅びに向かう私達を何より悲しみあわれみ、その死への道から何としても立ち返らせたいと思えばこそ、厳しく私達を戒め、悔い改めて主にある命の道へ導こうとされるのです。
事実、今日の箇所では幼いサムエルにこの後語られたのは罪を重ね過ぎたイスラエルとその祭司への裁きの言葉でした。
そしてこの取るに足らない幼い者にそのような厳しい裁きの言葉を聞かせなければならなかったのは、主の御言葉を真っ先に聞き、また従うべき祭司達に、主はそれまで再三語ってこられたにも関わらず、彼らはその言葉をことごとく退け続けたからに他なりません。
この後、幼い者に聞かせた言葉でさえ(神は真実なる方ですから)、一点一画も違わず、全て事実となり、祭司達とイスラエルは裁かれました。
これは恐るべき事実です。
人の心はそのままでは主に対して充分頑なで、天地万物を造られた神の御言葉をさえ容易く退けることができ、そのことにより自らの身に死を招くのです。
ですから、私達は主にまずその頑ななひざを(頑なな自らの思いを)折って、主にひれ伏し、主に全て聞き従いますという姿勢において、主に耳を傾ける必要があるのです。
その時初めて主は私達にご自身の深い思いを語ってくださるでしょう。
主の御声を聞きたいとは思うけど聞けないという話をよく聞きます。
でも私達が、都合良い耳に聞き易いことだけを求めて主の御声を求めても、聞く気のない者に主の細い御声が聞こえるはずはないのです。

【申命記30:12-14】
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

主の御言葉まさに私達のすぐ側にあるのです。
いや、いまやこの御言葉は驚くべき形で、私達の内に生きる聖霊、神の御言葉そのものであられる主イエスがそのまま住まわれている(エレミヤ31:31-34、ヨハネ1:1-5,14)のです。

【箴言8:17】
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

さあ、主の御言葉を求めましょう。主はその御心を求め、その御声を聞きたいと心から願い、ひざをかがめる者に、親しく語りかけてくださいます。
そして、主の御言葉に従い生きていきましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ10:2,3】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。

【ヨエル2:28,29】
2:28 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
2:29 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

【エレミヤ31:31-34】
31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

【列王記上19:9-13】
19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。

【ヨハネ5:2-8】
5:2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
5:3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
5:4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5:5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

【ヘブル4:12,13】
4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

【1ヨハネ1:5-8】
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

【エレミヤ1:9,10】
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

【ヨハネ1:1-5,14】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 [中略]
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

【サムエル上3:1-14】
3:1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。
3:2 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。
3:3 神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、
3:4 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、
3:5 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。
3:6 主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。エリは言った、「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」。
3:7 サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。
3:8 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。
3:9 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。
3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
3:11 その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。
3:12 その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。
3:14 それゆえ、わたしはエリの家に誓う。エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう」。