主の栄光を求めて

2014年10月16日 12:49

【ルカ17:7-10】
17:7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
17:8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
17:9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
17:10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

なぜ私達は自分の成果を求めるのでしょうか。
それは自分の栄光を求めること。
自分が誰かに認められるため、また自分の達成感のため、自分が何かしらに成った、あるいは達したという実感を得るため、すべては自分を見て自分が何かしらに行き着いて、信仰者としてどう見えるか、どう認められるかに捕らえられている。
そして、それを互いに誉め合い、認め合い、それを目的として教会というコミュニティーに集うと言うのであれば、それは主の本旨であるとは言えません。

【ヨハネ5:42-44】
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

私達が自分自身の姿がどうあるのかということから目を離すことをなくして、神を見ることはできません。また、神を信じる信仰に立って、日々を過ごすこともできません。
それは自らを誉れを求め、自らを愛することが優先される毎日であり、神を愛し、神に喜ばれることを後回しにした、あるいは頭にない生き方だからです。

【ヨハネ12:25,26】
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
12:26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

自らがどれほどに栄光に輝こうとも、それを互いに誉め合おうとも、神の栄光を求めないのであれば何の意味もありません。また、神に喜ばれる生き方とはなりません。
なぜなら、自分の栄光が、神が真に現そうとする栄光の輝きを覆い隠し、むしろそれは輝きではなく人の手に汚されたもの以外に何ものでもないからです。
そして、神の真の栄光がどこにあったのかすらわからないということになる。
つまりそれは視点と心の向かう方向の問題、自分を見る者は自分の栄光を見ようとしますが、神を見る者は神の栄光を見ようとします。
そのとき自らがどのような状態であっても関係の無いことなのです。
それは神の栄光の喜びに、自らを忘れてしまうからであり、神が栄光を受けることに比べれば自らのことは何の価値もないこと、それほどに自らが見えなくなるほどの栄光を、主を望み見る者は見てしまうからなのです。
自分の命よりも価値のあるものを見出せた人は何と幸いなことでしょう。しかしそこにたどり着く人は多くはありません。

神の栄光が現れること以上に価値のあることはありません。

【ヨハネ7:18】
7:18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

ですから、私達は主の喜ばれることのために、自らをささげ、主に仕えますが、その全ては主の喜びのためであり、主の栄光が現れるために他なりません。
むしろそのために人知れず自らをささげ、それが人の目にどれほど無価値に見え、また無駄なことのように見えたとしても、そこに神の栄光を望めるのであれば、私達は自らの命をも最高のささげ物としてささげる。
それは主イエスが父なる神の栄光をただ一身に求め、自らを十字架にささげた姿に見ることのできるもの。
父を唯一満足させたささげ物をささげた姿、この地上で死に至るまで主に仕えた姿。
だから、主はそこにご自身のこの上なき大いなる栄光を現されたのです。

【ヨハネ12:28-33】
12:28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
12:29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
12:31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
12:32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
12:33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

【ヨハネ13:30-32】
13:30 ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
13:31 さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。
13:32 彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。

【イザヤ53:2-7】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

私達の人生は神の栄光が現されるためにあります。
そのためには、まず自分から目を離し、主の十字架を見上げ、主の愛を知って喜びに満ち、この愛に答えて、心から主を愛し、主が喜ばれることはいかなることかを求めることです。
そうする小さな日々の中で、私達は主の栄光が現される生き方を、主イエスがこの地上で歩まれた道のりの中に見出し、この御足の跡を自然とたどることでしょう。
やがて、その歩みに主の栄光が満ち溢れ、この地上では味わうことのできないほどの主の永遠の喜びの中に入れられることでしょう。

【ピリピ2:5-11】
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

あなたは今日、何を求めて、何のために生きますか?