主の主権にひれ伏す

2014年08月10日 19:18

聖書箇所: ダニエル4:34-37

主の願いはこの地に主がご臨在を現し、主ご自身がこの地を統治されることであり、その統治の完成した姿こそ、新しい天と新しい地の姿、黙示録21:22-22:5に語られています。
しかし、同時に同様の姿はエデンの園において、すでに存在していた(創世記2:4-17)ものです。
つまり私達人間は自ら犯した罪のために、地はのろわれ、そのエデンの園を出されたのであり、主から離れ、主の統治から離れて、自らの力で生きる道を選んだのです。
ここから神は、自らのご臨在を地に置くと共に、ご自身の統治を現すという、主の私達への一方的な愛によって、私達に少しずつ近づかれるという道のりを計画されました。
それはイスラエルの民族の内、幕屋の中に、やがて神殿の中に、主はご自身のご臨在を置き、統治を現されました。
そして今、主はさらに近く人に臨まれ、まさに私達の内に住まわれ、私達教会を通してご自身の統治を現されようとされています。
この統治における主権者はもちろん主であり、いや本来天地万物全てを統べ治められているのは主であり、この方こそが全ての主権者です。
つまり主はそのご臨在と共に、「私こそが神である」「私こそが主である」とご自身の主権を主張されて来られたのであり、私達がこの地に、この場所に主のご臨在を求めるということは主がその主権を私達に主張されるということなのです。
誰がこの主権者、神であられる方、「有って有られる」方の前に、自らを主張することができましょうか。
否、誰もこの方の前では自らが主権者であるかのように立つことはゆるされず、裁きの内に、その存在は退けられるのです。
つまり、主がご臨在されるとは、主の主権の前に、ひれ伏すか、逆らうかによって、その存亡が問われるということです。
今、主は私達の長年の祈りとご自身の熱心により、私達のこの国に、ご自身のご臨在を現そうとされています。
しかし民主主義という政治形態の中、自らの主権を主張し続ける私達は、主の現れの中でどのような結果を受け取ることとなるでしょうか。
これまで主は私達に幾度もご自身を現すと語られ、この国へのリバイバルを語られてきましたが、それは同時に、この方のご臨在の前に、私達がいかにあるかを主に問われているということなのです。
そこで今日は、主の主権について、共に分かち合いの時を持ちたいと思います。主の前に心沈め、主の御言葉に耳を傾けてまいりましょう。


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