わが花嫁よ

2015年05月10日 19:29

聖書箇所: ホセア14章
主は私達のすぐ側にまで近づかれご自身の臨在を現してくださっています。
それはどれほど小さくとも主を求める者を主は喜ばれ、主に近づこうとする者に主ご自身が近づいてくださるからです。
そのことは私達にとっては、日々の生活に十字架が現れるていうことでもあり、一時一時の選択が、主を選らぶかそれとも主を退け自分を選ぶかという選択肢の中で、不必要なものを十字架に取り去り、ただ十字架の愛によって、私達が主だけのものとされるための聖別の行程でもあります。
なぜ私達をそれほどに主は愛してくださるのでしょう。
それは私達教会こそキリストの花嫁と言われる、主に愛され、ただひたすらに主を愛し、この愛のゆえにやがて永遠に主と一つとされるために生み出された者であるからです。
この結婚の奥義という聖書の結論は、聖書の全体を貫く神の計画の中心であり、私達人間そのものがそのために主により造り出され者であるということを、私達はアダムとエバの姿の中に見ることができます。
つまり、人の男女の結婚の中に込められた助け手として、花嫁としての教会と花婿キリストの永遠の愛の約束を見ることができるのです。
しかし最初のアダムは罪を犯し、人の中に罪が入り込みました。
つまりは人間は生まれながらにして、主から離れ、命そのものである神を退けるものであり、それを逃れて生まれてくる人間は存在しません。
誰もが罪のうちに血と汚れの中に転げ回っているような人生であり、つまり私達は決して主に愛されるにふさわしいようなものではありませんでした。
しかし、主はそんな私達をご自身の命で買い取って(贖って)くださった。
さらには主ご自身の麗しい輝きで私達を宝石で飾るように輝かせ、愛の内に飾り、主の元で何不自由なく生きれるようにしてくださいました。
それこそが、主の愛であり、私達の生きる全ての日々がその愛に満ちて、主が私達をいかに愛しているかを表す程に、主は私達を愛おしみ、愛してくださった。なのに、私達(クリスチャンの内の多くの兄弟姉妹が)は姦婦のように世を愛し、たびたび主から離れ、また罪の中に戻るような愚かなことを繰り返している。
そのように主は私達に語りかけ、それでもなお主は私達を愛尽くして、私の元に帰れと、再び十字架にご自身の命の代価を差し出すかのように、私達を御元に戻そうと渇き求めておられるのです。
今日私達は主のこの切なる思いを真剣に受け取り、私達の日々の生活を省みていきたいと思います。


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