よみがえりの信仰

2016年04月03日 20:13

聖書箇所: 1コリント15:12-19

私達は毎年復活祭において主の死とよみがえりを今一度見つめ、わが信仰として、心に思い直す時を持ちますが、しかしそれがただ形式だけ知識だけのものであるのであれば、それは何の意味もありません。
つまり、神に心向けることよりも世に心奪われ、人の常識の中に入れられる知識の積み重ねの上に、よみがえりを見るのであれば、それは決して人の教える(考え得る)復活を越えることはできないのです。
しかし、聖書はそれを「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の「すべての人の中で最もあわれむべき存在(1コリント15:19)」であると明確に語っています。
つまりは人の世に目を向けそこに如何により良く生きて行くかだけを求めて、人の常識に閉じ込めた、知識だけの信仰のない、言い方を変えるのであれば、よみがえりの命のない形骸化された宗教の中に生きるのであれば、むしろ神を知らない者よりあわれむべき者であると、その生き方の無意味さをはっきり語っているのです。
しかし、私達に与えられているのは、あらゆる状況を越えて、つまりは死を超えて、私達の人生の中に現される、よみがえりの主を信じる者だけが見ることのできる、よみがえりによる勝利の生き方です。
つまりよみがえりの人生です。
主はこれから起こるであろう日本の過酷な現実に、このよみがえりの信仰無くしては、まさにこの言葉の通り、最もあわれむべき者として、惨めに生きていくしかないことを、私達にあらかじめ強く語ってくださっています。
この過酷な現実は、この世の目に見える朽ちていくものの豊さが崩壊して行く時であるということができるでしょう。
しかしもしもクリスチャンが、本来与えられている一度死んだキリストをよみがえらせられた神への復活の信仰に基づき、自らの人生に死を超えるよみがえりが現れ続ける中に生きるのであれば、その時において、私達は朽ちることのない神の豊さ、真の豊かさに、満ち溢れ、命に渇き、飢えたる人々をキリストの元に導く、この国を救いに導く者となるでしょう。
だから今がその訓練の時であると主は敢えて語られます。
今ある私達の歩みはすべての問題、苦難に、主のよみがえりが現れ、勝利を勝ち取り続けることを知るための、訓練の時であると。
だから、意気消沈してはならない。死を超え、よみがえられた主により頼み勝利を得よと、主は力強く私達を励まされています。
だからむしろその日に滅び行くこの国人々への主の思いを我が思いとして、今この主の栄光にあずかるよみがえりの信仰を持つ者になろうではありませんか。
主はそのよみがえりの信仰が、やがて終わりの日、主が再びこの地に来られる時に、ラッパの音と共に一瞬にしてこの体も贖われ栄光の体によみがえり、空中に引き上げれて、愛する主と永遠に共に一つとされ生きる、私達の救いの完成する日、永遠の希望へと結びついていることを語られています。
まさに私達はこの地に於いて、この救いとよみがえりをこの朽ちる体に先行して受け取っている者であるのです。
だからこそ、私達は朽ちて行くものに希望を寄せるのではなく、朽ちないものに永遠の希望(真の希望)を持とうではありませんか。
そして、これこそが私達に与えられている、よみがえりの信仰であり、再臨を待ち望む信仰であるのです。
今回は主が私達に与えてくださった真のよみがえりの信仰とは何かと言うことについて、主の御言葉を分かち合いたいと思います。


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