よみがえりの信仰

2015年04月09日 13:01

【ルカ23:49-24:7】
23:49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。
23:50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。
23:51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。
23:52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、
23:53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。
23:54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。
23:55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。
23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
24:2 ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

確かに人の目は主イエスキリストの葬られる様を見届けていました。
主イエスは亜麻布に包まれ、墓の中にその体は納められました。
そして重い、おそらくは1トン以上はあったであろうと言われている石が、その墓の入り口を塞ぎましたが、死という事実はその石よりもはるかに大きく重く主イエスと彼女達を隔てました。
翌日墓に訪れた彼女達はそのどうしようもない主イエスの死という事実に、巨大な石と共に向き合わなければならないはずでした。

【マルコ16:3,4】
16:3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。

しかし、目にするはずの現実は、彼女達が最大の問題として話し合い心配してきたことに反して、覆されていたのです。
その最大の問題である巨大な石と共に、主イエスの死という事実ごと。

これは私達の人生のあらゆる問題に関して同様のことが言えます。
人の目で見た事実は、ちゃんと論理的にその問題がどうして発生したのかを知らせ、人はそこに基づき、その問題を如何に解決するべきかと考えるわけです。
そして、どのような方法論でそれを解決しようかと考え、あるいは努力しようと考えます。
この時点で、人はその問題の大きさに途方に暮れたりするわけで、ああでもないこうでもないと心は悩みに覆われるわけです。
さてあなたの毎日はそのように、悩みに覆われていないでしょうか。
確かにあなたの目で見る事実に、あなたは心奪われていないでしょうか。
「すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか(7節)」と、主イエスのよみがえりについて聞いているのは彼女達ばかりではありません。むしろ私達の方がはるかにそのことを知っているはずです。
なぜなら、この方がよみがえって下さったからこそ、私達は救われ、私達の内には新しい命が確かに生きているわけなのですから。

【ルカ24:5,6】
24:5 あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。

私達がよみがえりの主を忘れ、問題の中に頭を没頭させ、解決を何とか求めようともがき続けることはこの墓の中に主の死体を探し続けることと同じです。
死の中を探し回っても、いつまで経っても死という事実しか見つかりません。
しかし、主イエスはよみがえられたのです。
私達にとって死以上の問題があるでしょうか。しかし主はこの死に打ち勝ちよみがえられたのです。

【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

この方の死にも勝利した事実は、全てを勝利に飲み込ます。私達の問題は巨大な石を取り除くどころか、跡形もなくこの勝利に飲み込まれてしまうのです。

【1コリント15:19,20】
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

ここにはどのような方法でその問題を解決すべきかなどという人間的なプロセスは存在しません。
神は私達が問題を解決するためのプロセスを遠くから見守り、ともすればその手伝いをしてくれるかも知れないような、虚しい存在ではないのです。
そのような信仰に基づき生きているのであれば、「わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在」です。
信仰はもっとシンプルであり、もっと根底的な部分から勝利に満ち、希望に満ちているのです。
ただよみがえりの主を信じる信仰のみが、墓の中に死を探し続けるような問題に心奪われ続ける毎日から私達を解放し、すべてに勝利を得させるのです。
そのとき、全ての問題は主イエスの勝利の前にひれ伏し、全てはこの勝利に飲み込まれていきます。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

あなたはこのよみがえりの主を信じていますか?
ならば全ての問題は死に貧するところからよみがえり、あなた圧倒的な勝利者となります。
あなたはそのことを信じますか?
信じるならば、さあ直ちに主イエスの前に行き、自分の問題の全てを、十字架のもとに置きましょう。
あなたにはできないでも、主に不可能はないのです。

【ローマ8:35-37】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。