よみがえりの主がおらる

2014年05月03日 11:44

【ルカ7:11-17】
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。

これはナインという町で主イエスがなされたよみがえりの奇跡です。
しかしこの奇跡の御業のきっかけが、一人息子を亡くした母をあわれまれてというところに私達は深い慰めを受けます。
そして、そこで現された御業はひとりの若者をよみがえらせたばかりか、恐らくその母を含め、この御業を見た多くの者達をやがて神の前によみがえらせることとなったことでしょう。
なぜなら、この当時ユダヤの人々は、死んだ後人がよみがえることについて、信じる人と信じない人に分かれていましたが(参照 使徒23:6-10)、ここに主はよみがえりの御業を現されることにより、その論争に決定的な結論を証したからです。
もしも、よみがえりがないなら、人は死後よみに下り、そこに永遠に閉じこめられるだけで何の希望もありません。この地にいることのみが希望であり、死後にはひとかけらも希望がないことになります。
しかし、もしも死後よみがえりがあるのであれば、神(主イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つことになるのです。

【コロサイ1;18】
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

【ヨハネ11:25,26】
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」

そして、そのことは死後よみがえって、キリストと共に永遠に住まう、完成された神の国(天国)にある永遠の希望が与えられることとなるのです。(1コリント15:12-28)
何と驚くべきことでしょうか。このような奇跡をただ通りすがった名もない者のために、主はなされたのです。いや、主の内には実は明確な動機が存在しました。主は「深い同情を寄せられ(13節)」たのです。決して通りすがっただけではなく、主は愛してくださっていたのです。
神は私達の頭の毛の数さえご存知であり(ルカ12:7)、私達が生まれる前この世の日が一日もない時から私達を知り、愛してくださっているのです(詩篇139:13-17)。
そして、私達によみがえりの命を与え、永遠の命にあずかる絶大なる希望を与えたいと切望されたのです。だから、主イエスを救い主と信じる私達にこのことを与えてくださったのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じていますか?
あなた自身のよみがえりを本当に信じていますか?
あなたに与えられているこの永遠の命という絶大な希望を信じていますか?
主は今もあなたのそばにいて、この希望をあなたに本当の意味で与えたいと願い、深く愛しておられます。
あなたを愛するがゆえにその命を十字架にささげ、またよみがえってあなたにご自身のよみがえりの命を与えるほどに。
よみがえりの主に、命の主に、その御手に、永遠の愛にすがりましょう。