よみがえりに歩む

2017年01月01日 19:02

聖書箇所: ピリピ2:5

主は私達にこれまで多くのことを約束してくださいました。
しかし、その全ては人の力で成し遂げることの不可能なことです。
でもそのことは、神の御業の現れ方に非常にかなっています。
なぜなら、人の力に一切よらない事であるからこそ、栄光が神のみにより現される。神のみがその栄光を賛美されるということとなるからです。
むしろ人の力が使われ、人の手によるのであれば、その罪にまみれた手によりそれはどうしても汚された業となり、また人自らによる業としてどうしても栄光を自らのものとしてしまします。
さらに言えば、この人の力、人の業が神の御業を妨げるものとなるのです。
ですから、主はご自身の約束を神の御業として現されるために、私達を、主の栄光を現すにふさわしい器とするため、試練の内に砕き、あるいはその中で人の力が尽きるのを待たれることがあるのです。
聖書の内にはそのような扱いを受けた人々の姿が随所に語られていますが、ヨセフもその一人でしょう。
彼はまさに主の約束を夢とその解き明かしの内に受け取りましたが、それが自身の身に成就するにはその夢を語られた父ヤコブと十一人の兄弟と共に、試練の中を潜らなければならなかったのです。
その中で、ヨセフの人生にはイエスキリストの十字架の死と復活が現されていました。
まさに人の力の尽きた時、死んだも同様となったその時、人はキリストの死の内に入れられ、一つとなり、だからこそキリストの復活と勝利を見るように、ヨセフも自らの姿の内に、主の御言葉の成就するのを見ました。
これは私達も同様のことが言えます。
主が私達に約束された言葉は、一度主の訓練の内に、キリストの十字架の死と復活の経験を私達自身が体験する中で、やがて成就する。多くの人はこのキリストの死と一つになることを嫌うのですが、そこには本当の主の御業は現せません。
だからこそ主はご自身の御足の跡を、主を愛し、主と共に歩むことを選ぶ者に辿らせるのです。
主を選ぶ者を、主はご自身の選びの民として選ばれる。
祝福を願いその手を離さなかったヤコブの歩みがあったからこそ、この主のご計画はイスラエルの子孫に現されたのです。主イエスの十字架の死と復活と一つにされながら。
だからこそ、私達は主が私達に約束してくださった最初の言葉、福音の中に語り尽くされている主の莫大な祝福を、忘れることなく握りしめ、主の約束が我が身になるために待ち望み生きる必要があるのです。
そして、もしも私達がキリストと共に死に等しくされるのであれば、私達はキリストの復活とも等しくされ、また天に上げられた主と共に、神の御座の前に座する者とされるのです。
この時、全地は主の栄光が私達を通して、現実の世界に現されるのを目の当たりにし、感嘆と賛美と共にその救いが欲しいと主の民に連なる者が次々と起こされていくでしょう。
まさに主の御言葉がここに次々に成就し、真理(キリスト)に従うのではあれば何でもできるという驚くべき主の御業を目にすることとなるでしょう。
主は今このように、主の思いと同じ一つの思いとなって、十字架の死を共有する者に、よみがえりの御業を現そうと語り、溢れるよみがえりと栄光の御業の中に、私達にリバイバルを約束してくださっています。
これは全世界に対する主の勝利の約束です。
今年主の私達に約束してくださるよみがえりの約束の御言葉に、心から主と心一つにし、耳を傾けていこうではありませんか。

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